2008年10月1日
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「自分との戦い」
 
(アルチュール/1961年生/宮城)


ギタリストでもなく、フォーク中心とは決して言えない私が応援団のリレーエッセイを書くのはどうかと思うが、たまには別世界の身の上話を読んでもらうのも一興かもしれない。

歌うことが大好きな子供だった。泣いている子どもが近くにいれば歌を歌ってあげたという。
それが小学生のある日から歌えなくなった。
今でも決して忘れることはない、笑われた「あの日」。

そして道を見失ってぐずぐず迷い続けた高校生の自分に、10年来習ってきたピアノが突然道を開けてくれた。高校のピアノ練習室でただただ自分から出てくる音を拾った。
その後、TOKAIのストラトやヤイリのギターとともに反戦と抵抗の歌を歌うロックバンド三昧の大学生になるが、モテようとする若き才能のあるギタリストだらけの中、私のギターに出番があろうはずがない。結局、女達ならぬシンセやオルガン、ボコーダーなど膨大な鍵盤楽器群に囲まれることになり、毎晩置き場所のなくなったシンセとベッドで添い寝をした。そんな20代、ショルダーシンセを胸に抱え、数えきれないバンドとライブを転々とした挙句、バンド仲間との確執や私生活のトラブルに辟易して一人になった。

たどり着いたのは、内面的に激情的な性格を唯一なだめられるアコーディオンだった。30代にしてストリートミュージシャンとして、アコーディオンとともに突然一人で路傍に立ちはじめた。
ギターやほとんどのキーボードを処分し、芋煮会にもアコ、ラブホテルにもアコ、一輪車に乗るのもアコ。やがてこのアコたちは愛人状態を過ぎて今や完全に我が肉体と同化し、「緊張すると走るベースの左手ボタンは心臓、呼吸とシンクロする蛇腹は肺、ミスると痛む右手鍵盤は胃」となった。
ミュゼットやピアソラ、クラシックや懐メロなどを弾きながら、だがアコーディオンでこれを弾きたいという思い入れがあるジャンルやミュージシャンが特にいるわけではない。自意識過剰で人前でひどく緊張する。いまでも人前での演奏は大いなる壁だが、改めて音楽と自分だけを向き合わせたいと思った。

さて、今や40代、情けない自分を忘れていたいがために日々日本酒をあおるが、この性癖をアルチュールという芸名に昇華し、再び自分に向き合う。他人との会話でもスポーツでも、リズム感のない自分のような人間が一人で音楽を演奏する、それは奇跡のようなもの。ソロ演奏を自分に課しているのはまぎれもなく自我の克服、おそらくは「あの日」を超えるためである。

もうすぐ50代。迷ってばかりであるが、幸い多くの音楽仲間に恵まれた。音楽がなかったら破滅していただろう。自分が音楽に救われていることは間違いないし、音楽抜きの人生など考えられない。
やりたいことが多過ぎて、行くべき道は形にならず広がっている。

  



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