2011年8月8日
<エッセイ一覧へ>

「オヤ応との出会い」
 
(MK/1973年生/兵庫)


僕にとってはそれは…人生を変えるような出会いでした。

幼少の頃から患っていた過呼吸の持病…。
当時は心療内科などいうものも無く、診察を受けても
原因不明の呼吸困難的な扱い…。

僕の7〜8歳からの人生は苦しみと恐怖との戦いを交えたものでした。
幼いながらも何度か「死」を考えたこともありました。

しかしながら、子供という単純さもあってか…日にち薬のように
なんとか中学生になる頃には、過呼吸自体は収まっており
まぁ、持ち前の小心者さと神経質さで(苦笑)、不安症的なものは
ありましたが、なんとか大人になる(育つ)ことが出来ました。

まぁ、子供ながらに「死」を身近に感じ、考える子供ではありましたが。
今思えば、そんな幼少時代が僕の心に深い影響を与えていたのでしょう。
そうして育った今の自分の心は、嫌いではありません。

この世には「感じる人間」と「感じない人間」がいると思うのですが、
それは言い換えれば「感じることの出来る人間」「できない人間」です。
まぁ、これは良い意味でも悪い意味でも言えることなのかも知れませんが、
僕は「感じることの出来る人間」が好きです。

例えば、普通に…健康に生きているということ…

これは意識しない人には分からない有難味かも知れません。
当たり前のように思っている人が多いでしょう。

しかし、病気をされたことがある方や、患っておられる方々にとっては、
ごく普通に、健康に生きれているということがどれほど素晴らしく、
ありがたいことなのか…感じることが出来ると想います。

そんな風に、やはり心を痛めた分、気付くものもある…
見えるものがある…と思うからです。

そして、とりわけ、何故か音楽をやっている人間には
自分と同属というか…同族というか…同じ匂いを感じる人が多く、
それも音楽というものの持つ「性質」なのかも知れませんね。

音楽は人の心に届いて、何かを動かす力を持っていますもんね。

…話が少しそれましたが、

ともあれ、そうして20歳にもなる頃には完全に病気は治まり、どこへでも
行けるようになり、結婚し、子供も生まれ…普通に暮らしておりました。

そして、4〜5年前…32〜33歳の頃、酷い発作が久々に起きて…
また過呼吸の呪縛に苛まれる事となりました…。

それからの僕は、まるでヒキコモリの様に職場と家以外は、段々と
出ることが出来なくなり、ここ最近では市内ですら独りでは出かける
ことが難しくなっていました。

そんな中でも音楽だけは心の救いであり、楽しみでもあったので
自宅で可能な限り、活動を続けていました。

そんな中で出会ったのがオヤ応だったのです。

そこには、ヒキコモリ状態の僕ですら希望を見出せるような…
そんな素敵な世界が広がっていて…

すぐに参加させて貰おう!と思いました。

そして、なんと近くに音楽同志が多いことか!!と、驚かされました。

色んな年齢や職業の方が色んなところでオヤ応に参加し、
コミュニティを築いている…。

それは、本当に嬉しい驚きでした。

そして初めて参加させて戴いた、自分の住んでいる地域…SP西宮での
ミーティング…。

なんとその初参加のミーティングがSP西宮の2周年記念であり、
驚いたことに、事務局の山下さんや創立時からのメンバーも東京から
御越しになり、こんな大きな団体で運営に携わっている皆さんに直接
お会いする機会がこんなにも早く訪れるとは思ってもみませんでした。

何か運命めいたものを感じるくらい(大袈裟ですがw)、
僕とオヤ応との出会いは本当に大きなものでした。

過呼吸の発作のせいでパニック障害のように、出歩けなくなっていた僕が
なんとか西宮という近い場所で音楽活動に戻れて…
しかも素晴らしい音楽仲間さんとの出会いもあって…。

本当に嬉しく想います。

これだけ大きな組織、ここまで来るのには僕の想像を超える沢山の苦難を乗り越えてこられたことだろうと思います。事務局や各地域で世話役という形で団体を支えている皆様に本当に感謝です。
僕もいずれ正規会員となって、少しでも運営の助けになれれば…と思います。
そして、この素晴らしい団体とその活動がこれからも続いてゆくことを祈るばかりです。^^

…と、文章にすると、本当に堅苦しい雰囲気になってしまいますが(苦笑)、本当にこれは僕の本心というか…気持ちです。(*´▽`*)

音楽の素晴らしさを改めて実感し、そしてオヤ応という団体に感謝をしつつ、この文章を締めくくりたいと思います。

乱文で失礼致しました。ペコ 。( _"_)。  





エッセイ一覧へ→
トップページに戻る→