「高田渡さんの想いで」 |
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(サミー/1952年生/埼玉) |
渡さんのとの初めての出会いは私が25歳ごろ、今から34年前です。北町トリオというジャグバンドでハーモニカを吹いていた時です。吉祥寺のぐゎらん堂というライブハウスで渡さんの前座をさせてもらいました。ライブが終わると渡さんから家に遊びに来ませんか?という誘いをいただき、後日、三鷹の自宅にお邪魔しました。そこでレコードを聴きながらいろいろな話をしました。また、たびたびご馳走になった渡さん手作りの焼きそばの味は今も忘れません。渡さんのバックでハーモニカを吹くようになるとは夢にも思いませんでした。
九州のツアー、東北青森のツアー、渋谷ジャンジャン、吉祥寺曼荼羅などなどいろいろなところでいっぱい思い出があります。
いつも渡さんが話してくれたことの中に「歌は残るから良いんだ、1曲でも残ればそれで良い。曲はたとえて言えば器のようなものだ、シンプルな器が最高だ。歌はそれにのせるご飯のようなものだ。」
渡さんの好きな器はレッドベリーのグッドナイトアイリーンかもしれません。そのメロディーの中に「鮪に鰯」や「ブラザー軒」のご飯をよそおって歌っていました。
ブラザー軒の作詞の故菅原克己さんの法事に渡さんと谷中の墓地まで行ったことがあります。もちろん二人で演奏させていただきました。
この原稿を書いている今日は高田渡さんの命日です。
2005年4月16日に天に帰りました。洗礼を受けてパウロ高田渡として今も天国でお酒を飲みながら歌っていることでしょう。ご冥福をお祈りいたします。 |
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