ビートルズと3つの後悔
みつこ(♂)
  

1966年の7月の初め、鹿児島は例年のように、暑い夏が始まっていた。
高校の寮で、大学を目指して受験勉強に明け暮れる生活は、マニラから台風とともに飛んできた4人組に、ぶっ飛ばされてしまった。ビートルズの最初にして最後の日本公演だった。

いつもなら、テレビは8時までしか見られず、みんなが大部屋で勉強している時間だった。その日は特別の許可があり、9時には大半の生徒がテレビが置いてある「娯楽室」に、我先にと駆け込んだ。その2年位前から、NHKはカラーの実験放送を始めていたが、一般家庭にカラーテレビが普及するのは、アポロ宇宙船が月に飛んでいった頃。だから、この時は、当然のことながらテレビは白黒。

「ミスター・ムーンライト」をバックに、4人を乗せて羽田から首都高を走るキャディラックの色が、どんなだったか、田舎の高校生には知る由も無い。(でも、あれは白黒フィルムだったのかもしれない)しかし、大混雑の娯楽室で、みんなが今か今かと待つ中、始まったのは前座のドリフターズとブルーコメッツの演奏。その後、やっとビートルズが歌い始めた。全部で11〜12曲。あっという間に終わった。スーパースターではあったが、とても下手に聞こえた。受験生の身分で、わざわざ鹿児島くんだりから、武道館へ見に行ける訳も無く、たった一度の来日公演をテレビでしか見ることが出来なかった。

あの夏の日から10年ほど経って、結婚もし、長女が生まれた頃、私はある電機メーカーの横浜営業所で営業の仕事をしていた。担当地域は横須賀。そう、あの山口百恵の横須賀ストーリーが流行った頃だ。
ある日、いつもの営業の帰り、何故かちょっと違う道を、と考えて、鎌倉を通って横浜に帰ろうと思った。海沿いの道から、鶴岡八幡宮の参道に入ったところを走っていると、左手の方向に背の高い丸メガネを駆けた外人がいた。似ている。いや、まさかな。そんな訳、ないよな。こんなところにいる訳が・・・でも・・・。

遠回りしたから、遅くなった。寄り道はできない。帰ろう。ちょっとゆっくり走っては見たが、停車はしなかった。今にして思えば、これは人生最大の後悔になった。それから2〜3日の後、ラジオで聞いたのは、「元ビートルズのジョン・レノンが、小野洋子さんとお忍びで来日していたそうです。」と言う、爆弾にも似た言葉。洋子夫人を伴なって、鎌倉に観光に来ていたのだ。その前にも、歌舞伎座に観劇に行った話は聞いていたので、ああ、やっぱり!としか思えなかった。
どうして車を止めて確認しなかったのか、30年近く経った今、思い出す度に悔やんでいる。

そして、さらに数年が経ち、同じ会社で海外営業の仕事に変わり、東南アジアを担当することになった。初めての出張は、1980年の12月。
香港を皮切りに、フィリピン、シンガポール、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランド、フィジーを回った。2カ国目のフィリピンの滞在は、クラシックなスタイルのマニラ・ホテル。所謂"four-poster"と呼ばれる、豪華な天蓋つきベッドのあるスイートルーム。顧客との夕食を終えて、部屋に帰りテレビをつけ、風呂の用意を始めた。ニュースの途中だった。見慣れた4人の写真。そして、丸いめがねのジョン。えっ、今、“shot dead”(=撃ち殺された)って聞こえたような気がしたっ!そう思った時には、次のニュースに変っていた。その夜は、それっきり。もやもやしたものを抱えたまま、眠りに着いた。

そして翌朝、あらためて部屋に配達された英字新聞を見た。ジョンが撃たれた!ただただ、涙が出てきた。主夫をやっていたミュージシャンは、息子の「パパはビートルズだったの?」と言う言葉に、復帰を決意し、「ダブル・ファンタジー」を作った。しかし、「スターティング・オーバー」は長続きせず、何時の間にか12月8日は「アメリカン・パイ」=The day the music died.になっていた。バディー・ホリーがドン・マクリーンにとって、音楽そのものだったように、ジョン・レノンは私にとっては・・・

それから、毎年(日本での)12月9日は、黒いネクタイをして会社に通っている。
 
2005/05/24
<<戻る