人類の「死」と「進化」
 
山下
  

ミャンマー、中国と続いた大災害、そして秋葉原の通り魔殺人に家族内殺人…最近死について考えさせられることが多い。

そんなとき、ふと「人類はこれまでに、いったい何人死んだ(生まれた)のだろう。」という思いが頭に浮かんだ。10数万年ほど前に現生人類が誕生して以降、人類の人口は緩やかな増加を示し、西暦1800年頃に10億になる。そして、1950年に25億、2008年には約67億人と急増している。合計すると、死を体験した人類の数は、現時点では100億人には達していないかも知れないが、数十年後には確実にその数を越えることは間違いない。

ここで、生物の進化というものを考えてみたい。生物の進化は環境に適応するために起こるのだが、「死」という現象は環境への適応以前に全ての生物が確実に体験する事柄になるため、最も進化が進んできた現象だと考えられないだろうか。

しかし、臨死体験者はいても、実際に死を体験した者はひとりも生きていないため、死ぬ時の感覚の進化というものは検証が困難な事柄だ。そして、宗教的、倫理的な側面を考えても、今後も科学的証明がなされる可能性は極めて低いと思われる。

これは、私個人の希望的想像に過ぎないのだが、死に対する進化が進んでいるとすれば、病気などで生物が「死」を迎えるとき、身体中の全ての機能が「心地よい死」に向かって全力で準備を始めるのではないだろうか。そして、進化が個体にプラスの方向に働く以上、痛みを緩和したり、恐怖を取り除くための生理機能の進化が最も進んでいると信じたい。

そして、そんな「心地よい死」を迎えるためには、身体が死を自覚して生理的な準備ができるだけの「時間」が必要だろう。

事故のように健康体が突然死に至る場合には、きっと十分に準備するには時間が足りないだろうし、自殺の場合は、精神的な準備は出来るとしても、身体の生理的準備が出来るとは思えない。また、病気の末期を迎えて死への生理的準備が整った段階で延命処置などをされた場合も、「心地よい死」をもたらす状態が持続できなくなるような気がしてならない。

事故に遭わず、自殺をせず、延命処置もされずに「死ぬまで生きて、心地よい自然死を迎える」。長くなくとも、そんな人生を理想として生きていたい。


 
2008/06/29
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