オリジナル曲について
 
日高の鳥さん
  

人に聴いてもらおうと作った曲は、1973年(高2)の冬が最初である。
親友と二人でアルディというバンドを組み、できたばかりの横浜
フォーク村のコンサートで歌うために2曲書いた。余談だが、
バンド名のアルディは当時フランスで人気のあった美人歌手
フランソワ−ズ・アルディから頂いた名で、Hardyと書いて
アルディと発音する仏語の香りが漂う粋な名だった。
このときの曲は、コード進行、ハモ、間奏、エンディングなど
非常に完成度の高い曲だったが、残念ながら、アルディのステージは
この1回だけで、曲はお蔵入りしてしまった。

大学時代はコピ−が多く、ウエストコーストが中心だったせいもあり、
フルバンドを組んでいないとステージに立つこともできなかった。
イーグルス、ドゥ−ビーブラザーズ、CSNY、アメリカなど懐かしいが、
何故か今ではほとんど歌わない。ただ、バンドでやる楽しさや大変さを
体験できたことのほうが財産だ。その当時はバンド活動ばかりで、
サークルとしての団体活動も忙しくオリジナル曲を書く余裕がなかった。

最も曲を書いたのは、社会人となり所帯をもってからの10年間で、
いろいろ感じることがたくさんあった。そのせいかテーマが明確で、
ストレートな表現が多かった。メジャーセブンスコード、マイナー
セブンスコードが多用され、曲の随所に半音進行が入り、
全体として凝った作りをした。
時は80年代、世の中はバブルに向かっていた。
70年代いっしょにフォークソングから始めた人も、
すでに多くがギターを弾いていなかった。その当時は、
もう私の中では拓郎やかぐや姫は過去の人になりつつあり、
純粋にフォークソングを歌う機会は減った。
しかし、オリジナル曲に恋の歌がたくさんできた。

その後オリジナルを作らない時代が続く。
仕事に没頭してもギターを弾きつづけたが、
あまり気乗りがしなかった。
マンションの借金返済を楽しみに働くような時代があり、
どこか殺伐とした気持ちで曲づくりができなかった。
それでも近所の酒場に歌える場所を見つけ、
小さなソロのライブをやった。若い連中とよく飲み、
よくしゃべり、まったくよく歌った。
36歳〜46歳のこの10年間がなければ、今の私はない。
ギブソンが欲しくてJ-45を衝動買いしたのもこの頃だ。

そして49歳のとき埼玉県日高市に越した。
息子がギター職人になり工房を作るため家を建てた。
お陰でギターと縁の切れない環境になった。
里山の静けさにアコースティックギターがピタリと合い、
ムラムラとまた歌いたくなって、オヤ応に加入した。
最近また曲を書き始めたが、妙に理屈っぽい曲になる。
歳のせいなのかどうかは不明だが、きれい事が書けない。
空々しい恋の歌などうそ臭くて書けない。
そのくせフォークソングが懐かしい。歌うのは平気なのだが。
いや、気力・体力もまだ充実しているし、
見た目も若いと人がおだてて言うので、
もうひと花咲かせておとなの恋でも書くか!

いや、もう危ない橋は渡らないと決めたのに。
♪限りないものそれが欲望〜と陽水も歌ったじゃないか。
それでいいんだ。そのほうが人間臭くていいんだ。
すべてオリジナル曲のために!

2011/06/26
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