やさしい悪魔 
 
Komadori48
  

私は、今年57歳になる会社員です。
女房・息子・母親と暮らす、平凡な家庭です。
学生時代はサークルでバンドをやっていましたが、就職とともに、
いつしかギターを弾くこともなくなり、仕事に追われる毎日を過ごしてきました。
それが数年前に息子も就職し、仕事も少し時間的な余裕ができてきて、
ひょんなきっかけから、またバンド活動を再開し、現在に至っています。
今までの人生を振り返ってみますと、特に大きなトラブルも無く、夫婦仲もまあ円満で、
息子もまあ普通に育ってくれました。
人に自慢できるようなこともあまりありませんでしたが、特に大きなトラブルもなく
小さな不満は言い出せばきりがありませんが、まあこんなものかという、
そこそこ平凡な人生だなと思っていました。
そんなある日、丈夫だけ(?)が取り得の女房が、急におなかが痛いと言い出しました。
その日はライブの前日で、実は女房も同じバンドでキーボードを担当しているため、
これは大変だとすぐに胃腸科の医者に連れていって腹痛の薬をもらい服用したら
痛みも治まり、翌日のライブはことなきを得ました。
ですが、念の為、数日後に婦人科で診てもらったところ、
卵巣に直径十数センチの巨大な腫瘍ができているとのことでした。
年齢や腫瘍の大きさから、卵巣癌の可能性が高いので、すぐに
精密検査が必要とのことでした。
女房からのメールを見たときは、心の動揺を隠せず仕事も手につきませんでした。
家に帰って、インターネットで卵巣癌について調べたところ、
卵巣は痛みを感じないため、発見された時には末期癌が多いと記されているでは
ありませんか。
私の頭の中では、 末期癌→女房の死→年老いた母もいずれは死ぬ→
息子もいずれ結婚して家を出て行く→ひとりぼっちの人生→どうして生きていくんだ!
という思いがめまぐるしく回転していました。
呆然とする私を尻目に女房は、もう保険の内容を調べていて
「癌だと保険金や入院費が結構出るから、大丈夫だよ!
おつりが来るよ!もうかったらお父さんのほしいギター買って上げるね!」
とうれしそうに言うではありませんか。
私は、「ばか!縁起でもないこと言うな!」と叱りました。
ですが、もしかしたら自分が癌で死ぬかもしれないという時に、保険金で私にギターを
買ってあげるという言葉を聞いたその時、私には確かに女房の背中に天使の羽根が見えました。
その夜、私は込み上げる感情に、布団の中で涙が止まりませんでした。
もちろん、神様には「ギターなどいりません!女房を助けてください!」と心で祈りました。
その後、女房は入院し、精密検査を経て、手術の日を迎えました。
手術終了後に先生から、「腫瘍は除去しました。良性でしたから、癌の心配はありませんよ」
といわれた時は、本当に肩から力が抜けるようななんともいえないうれしさと安堵感で一杯でした。
その後、女房は無事退院し、術後の経過も良好で、またいつもの平凡な生活が我が家に戻ってきました。
また、女房にあれこれ小言を言われる日々が戻ってきましたが、
今は幸福というものが少しわかったような気持ちです。
ですが、ためしに女房に「そういえば、ギター買ってくれるって言ったよね」と言うと
「癌じゃなかったんだから、買うわけないじゃない!」と軽く一蹴されました。
その時、もう女房の背中に天使の羽根は見えませんでした。

 
2011/10/23
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