2004年9月20日
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「どうなることやら・・・」
 
(ジーゲル/48歳/千葉)


小学生のころ自分は音楽にまったく興味はなく、オンチであったように思う。
そのころは近所の子たちと野球、ビー玉、ベーゴマなどで毎日遊んでばかりいた。

音楽の出会いは中学生に入ってから。
一番上の兄がブラスバンドでトロンボーンを吹いていたこともあり、「運動部に入るのもちょっと、かったるいしな〜!」などと考え、ブラスバンドに入部してしまった。それがよかったのか音楽に興味を持ち始め、中学2年のころビートルズのヘイジュードを初めて聴き「うわー、なんてすごい音楽なんだろー!」とショックを受け、ビートルズにのめり込んでいった。
このころニ番目の兄がヤマハのアコースティックギターを弾いているのを見て、自分も弾き始めた。それ以降、吉田拓郎、かぐや姫、赤い鳥、オフコースなどにも興味をもちアコースティクギターを弾く日々が続いた。

高校に入りヤマハのギターでは物足らなくなり「一生もの」のギターを買おうと思い立ちバイトでお金を貯めた。ある雑誌の小室等の記事で「国産のギターを買うなら10万以上じゃないといいものはない」ということを知り、バイトで稼いだ10万円を持ちカワセ楽器に行った。
そこで「予算は?」と聞かれ、周りのマーチンのギターには目もくれず(とても買えるシロモノではなかった。)「10万円」というとSヤイリのYD305が目の前に出され、弾いてみるとネックが太いけど弾きやすくとても気にいりすぐ購入した。「なんていい音がするんだろう。」というのが最初の印象でした。

この頃分岐点コンサートの前身であるドルッペという喫茶店で定期的にライブがあり出演したりした。その後1972年ドルッペに出演していたメンバーにより分岐点というグループを作り開設したばかりの野田市勤労青少年ホームを拠点に分岐点コンサートが始まった。当時は高校生だったため、自転車の荷台にギターを乗せ、手で持ちながら通った。今となっては懐かしい思い出である。

分岐点コンサートも今年で32年目になり、その間メンバーも去っていった人、入ってきた人いろいろな別れや出会いがありましたが、今までよく続いたなと思います。現在、メンバーはとても青少年とは言えなく平均年齢も大分上がりました。(笑)

昨年、戦うオヤジの応援団のメンバーとさせて頂き、新しい音楽仲間と出会いまた若い頃に戻ったように感じました。「みんなギターが好きなんだな〜」とつくづく思います。分岐点コンサートもオヤ応のメンバーの方たちに出演して頂き、とても盛況になりとても感謝しております。これからもよろしくお願いいたします。

そうそう「一生もの」だったはずのSヤイリは12年間メインギターとして活躍したのですが‘86に最初のマーチンであるD41を衝動買いしたためメインからはずれ、現在は手元にはありません。その後、ギターを整理し減らそうと思いつつ、増殖し今では12台にもなりました。この先どうなることやら・・・・。

 
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