2004年12月3日
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「足立安弘と中川イサト」
 
(ごきげんよう宮垣/47歳/兵庫)


私は18歳でギターを弾き始めた。最初のギターは、友人の中古で3,000円だった。まず、陽水にハマッた。それで陽水の持っているギターと同じものが欲しくなった。町に一軒だけある、駅前の楽器屋へと出向いた。そこで買ったのが、マーティンD-41だった。

当然そんなギターを買うお金はなかったが、当時乗っていたマツダのサバンナを売ったのである。マツダのサバンナはホンダの原付となり、マーティンD-41を何とか手に入れることが出来た。

濃いオヤジ達の中には、ご存知の方もおられるかも知れないが、当時の陽水が持っていたのは、S-YAIRI YD306だった。しかし、楽器屋へ通っているうちに、マーティンという存在を知り、清水の舞台から飛び降りたつもりでD-41を購入した。
それからは、隣町にいるブルースハープの足立安弘さんに、ギターを教えてもらっていた。

そして、22歳の時だった。ある曲を聞いて、頭をハンマーで殴られたような強い衝撃を受けた。その曲が“中川イサト”という人がギターで弾いている“陽気な日曜日”であるということを知った。

早速衝撃を受けたことを足立安弘さんに報告した。すると「大阪でのライブに連れて行ってやる」と言ってくれた。初めて電車に乗って大阪へ行った。イサト・ギター教室も始まっていた。教室にも入りたいと思っていた。喫茶店のようなところで行われていたライブであった。

ライブ終了後、足立さんとイサトさんは何やら話していたが、私はまったく喋ることが出来なかった。目の前に憧れの人がいる。そんな感じでとても話すことなど出来なかった。足立さんは何度も、目で私を促したが、私はダメだった。

結局2人で喫茶店を出た。100メートルも歩いた頃、足立さんが「ホンマにええんか?後悔せえへんか?自分でもう一回喫茶店に戻って、イサトさんに入門をお願いして来い!」と言われた。決断した。私は1人で喫茶店に戻り、友人達と談笑中の中川イサトの前へ立った。「あの、あの、あの、あの・・・教室に入りたいんですがっ!」唐突に私はこう言った。私の言い方がオカシかったのだろう、イサトさんの周りが笑った。イサトさんは、ひとこと「明日の昼、ここに電話して来なさい」と言って電話番号の書いてある紙切れを私に渡した。

翌日、早速電話を入れた。教室の場所、時間、授業料等を聞いた。もちろん即答で入門を申し込んだ。最後に私の住所を聞かれた。私が住所を言うと、その場所を知っておられて「そんな遠いとこから、来れるか?」と言われた。それから、約10年間、毎週、私は丹波から大阪の教室へと通った。

いつの間にか、イサトさんは私の運転する私の車で教室から自宅へ帰るようになっていた。教室では、へたくそで、全然練習しない劣等生であった。最後の3年間あたりは、「ただ、中川イサトに会いたい」という思いであった。極端に表現すると、ギターなんてどうでもよくなっていた。ただ、「中川イサトに会いに行っていた」という感じであった。

ギターに出会って、足立安弘さんに出会い、暴走族だった私が車を売り、D-41を手に入れ、中川イサトさんに出会い、ギターを教えてもらい、ギター以外のことも、たくさん教えてもらった。ギターとの出会いが、私の人生を変えたことは言うまでもない。

そして、東田寿和さんに出会い、戦うオヤジの応援団に出会った。私の人生の節目には、必ずギターや音楽が登場する。それはこれからも変わらないと思う。

ギターと音楽と足立安弘さんと中川イサトさんに改めて感謝したい。



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