2013年2月20日
<エッセイ一覧へ>

「されど私の人生は」
 
(こうぶん/1956年生/千葉)


今回早速のリレーエッセイの依頼を受け、私の人生振り返ってみるといろいろな意味でほんとにいいタイミングで日本に生まれたんだなと思う。
私は東北の農家の次男で小3まで家に農耕馬がいた。また家族は15人の大家族であった。白いご飯は中学になってからで、それまではひえ飯(黄色いいろのご飯でほとんどの人は知らないかな?)を食べていた。(お米は沢山作っていたが、年貢ではなく農協に売っていたため)小さい頃から家の農作業を手伝うことが当たり前で学校の勉強をしなさいと言われた記憶がほとんど無く自然の中で遊んでばかりいた。
これは大昔のことではなく、また他国のことでもなく、昭和30年代のごく普通の東北の農家の暮らしであった。
そんな中で物心つく頃より大衆音楽が人並みに好きで5級スーパーラジオから真空管ステレオ、テープレコーダーからラジカセに変わりテレビが自由に見られるようになったのは中学からであったがよく聴いたり観たりしていた。
中学では学校の備品の楽器が使えるということでマンドリンギタークラブではなく、ブラスバンドでクラリネットを担当するが、好きになれず挫折、高校では電波研究同好会で送信機や嘘発見器を作り文化祭で好評を得る。このとき高一であったがその仲間から吉田拓郎を聴かされる。まだ「結婚しようよ」でメジャーデビューしていないときのことですが、楽器をあきらめたはずがフォークギターの音色と音楽に急速に惹かれた。レコードを買ってもらえるような裕福な家庭ではなく(田畑山は沢山あるのに貧乏であった)カセットテープに録音してもらって何度も聴いた。その後バイトしてフォークギターを手に入れたことはいうまでもない。
そして高校卒業と同時にギターを抱えて上京した。(ほんとは埼玉に)その吉田拓郎との出会いが私の音楽および人生のバイブルまたは原点であると今にして思う。
現在アマチュアバンドもやり、ライブもよく聴きにいく中で戦うオヤジの応援団を知る。




エッセイ一覧へ→
トップページに戻る→