思い出
味噌ッカツ
 
自分がギターを初めて手にしたのは、確か昭和44年(1969年)頃、中学1年か2年の頃だったように思う。ちょうどシューベルツの「風」やビリーバンバンの「白いブランコ」がヒットし始めた頃である。

私は8人兄弟姉妹の6番目で4人の姉と2人の妹、兄1人に囲まれていた(女6人男2人という構成)。両親は特に音楽好きというわけでは無かったのだが、どうした訳か我家にはピアノとオルガンそしてギターがあった。休日には次女のピアノまたはギターの伴奏で家族合唱をしていたが、父は極度の音痴のため仲間外れにされるのが常であった。

私は中学に入ってから始めたトランペットに夢中で、アルハートやニニロッソのレコードを聴きまくり、将来の自分とダブらせていたので、そんな音楽一家で育った割には、ギターを始めるのは遅かったかもしれない。

ギターを始めたきっかけは、当時友人の間でギターが流行りだし、自分も遅れてなるものかと、家にあったギターを初めて手にしたのである。はじめてチャレンジした曲は「花はどこに行った」だったと思う。よく難関とされる「Fコード」も難なくクリアして、一月ほども経つとストロークで伴奏しながら歌うことができた。

ギターが弾けるようになると、誰でもそうだと思うが、仲間と一緒に弾くようになり、そうなると「風」「白いブランコ」をハモり、やがてPPMやブラフォーのコピーをするようになる。

これもまた誰もが通る転換期なのか、当時これまたはやっていた「ベンチャーズ」やGSが何ともカッコよく、今度はエレキバンドに熱中するようになって、やがて「レッドツェッペリン」「クリーム」「グランドファンクレイルロード」等のハードロックに発展していった。

余談であるが、ベンチャーズのコピーをやっていた頃のドラマーは、「お前らまだベンチャーズか!」とほざき始めたと思ったら、矢沢永吉率いる「キャロル」の初代メンバーとなって、渋谷の「ジャンジャン」で皮ジャン着てブンブンやっていた。ハードロックをやっていた頃の仲間にはその後「高中正義」とスタジオに入った奴もいる。

高校2年の頃、突然ハードロックだけやっている事がつまらなくなり、アコースティックな味付けを求めるようになる。ピアノ弾きと女性ボーカルをメンバーに迎えて「ペドロ・アンド・カプリシアス」やソロ活動を始めた「沢田研二」の歌をレパートリーに加え、井上陽水の「太陽の街」や「月が笑う」「帰れない二人」、泉谷しげるの「寒い国からきた手紙」や「眠れない夜」なども好きでやるようになった。

またまた余談であるが、やがてプロとなった「渡辺真知子」は僅か数ヶ月ではあったが初代のピアノメンバーである。我がバンドに加わったことが、ひょっとしたらプロデビューのきっかけとなったのかもしれない。

いい時代であった。大した腕も無いのにバンドをやっていけたのは、足りない部分やテクニックを皆で補いあえたからである。何も言わなくても、ヘッドアレンジで演奏とハモリをこなし、色々と遊びたい年頃なのに練習には必ず全員が集まることができた。あの頃の仲間はどうしているのだろう。何とか連絡が取れる者は、一人だけになってしまった。

社会人になったのだ。バンドは自然消滅。それぞれの人生をそれぞれの伴侶や仲間と共に歩んでいるのだろう。

サザンの「Yah!Yah!あの頃を忘れない」の歌詞に「互いにギター鳴らしただけで分かり合えてた奴もいたよ」と言う一節がある。また、アリスの「ジョニーの子守唄」こんな歌が好きなのも、あの頃の自分とダブらせてしまうからだろうか。

私も社会人になってから10年近くギターを触らない時期があった。

再びギターを弾き始めたきっかけは、D-41と出会ってからである。もう30になっていた。

そして今、また新しい仲間と出会うことができた。今度はバンドは無理かもしれないが、あの頃に歌っていた歌を、心から楽しみそして喜びをもって歌うことができる。初めて会った人なのに、誰かが弾き始めるとそれに合わせてメロディをいれ、そして歌が始まり自然とハーモニーが生まれる。

「素晴らしいおやじ達」バンザイ。

 
2002/12/16
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