2004年11月26日
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「音楽はいいとも」
 
(ダイナン/46歳/大阪)


 私にとって初めてのギターは、中一の春、近所の質流れ店のショーウインドウに置かれていた白いガットギターでした。安物ながら、その白い色と大きな図体は、一緒に置いてある時計やアクセサリーの中で、一際まぶしく輝いていました。そのギターはその数ヵ月後、私への誕生日のプレゼントとして、父が買って帰ってきました(田端義男のファンだった父が、自らも弾いてみたかったようではありましたが)。私はクラシックギターの通信教育を受け始めました。

 そして同じ年の12月、ラジオで聞いたのをきっかけに、初めてのLPレコードを購入、加川良でした。それがフォークソングとフォークギターとの出会いでした。翌年から、私の音楽はフォーク一辺倒。1971年のことでした。もちろんクラシックギターはドロップアウト、白いギターは父専用となり、私は新たにヤマキのフォークギター(¥18000)を月賦(これも初体験)で買いました。この頃から、「マーチン」の名前を知るようになりましたが、私は、それはプロが使うものであって、素人が手にするものではないという固定観念に支配されていました。

 さらに1973年、私の住む町に「高石ともや&ザ・ナターシャー・セブン」がやってきました。ブルーグラスに始まり、日本を含む世界の民謡、オリジナル、しかも全部日本語の詩で。これにはすっかり魂を奪われました。1974年、高校生になり、アルバイトも少しは出来るようになった私は、バンジョー、フラットマンドリン、オートハープと、次々に楽器を買い揃え、ちょうどその頃に出た「107ソングブック」をお手本に、仲間と一緒にナターシャセブンのコピーに明け暮れておりました。この楽器たちも、もちろん国産の安物ばかりで、バンジョーならバンジョーの「音」が出たらそれでいい という感じでした。今思えば、この頃が一番楽器に触れていた時間が長かったように思います。

 高校を出て社会人となり、楽器など触る時間もないのに、ボーナスという罪なものがある為(このくだりはこちらのメンバー諸氏には共通項?)に、10万円もするブルーベルのギターを買ってしまいました。まだこの時点でも、マーチンはプロが持つものという偏見に囚われていました。
 

 さて、最近の話になりますが、二年ほど前、母校の文化祭のイベントで、OBのバンドの出演を募る企画に賛同し、卒業以来26年ぶりに集まったのが、同期では私を入れてたったの3人(上の写真)。
3人の名前の頭文字をとって、i.i-tomo(いーとも)、良い友達という意味も含めてそう名付けました。
 
それを機会に、面白いから続けようかと、私ともう一人の二人組みでぼつぼつと活動を始めました。
オカリナ教室の先生でもある彼女のオカリナと私のギターのコンビです。オリジナル数曲と、いろんなジャンルの音楽に取り組んでいます。日程が合えば、ボランティアで演奏しに行きます。これまでにも敬老の集いや、市民コンサートのお手伝い(左の写真)などに参加しました。ユニット名は二人なので「i-tomo」(いーとも)です。

 そして昨年、「人前で演奏するのだから」という大義名分の下、ついに禁断の果実、マーチンを購入しました。やっぱりええ音しますわ。何でもっと早く買わなかったのだろう、これまでの人生でこの何倍の無駄遣いをしてきたことかと悔やんでも悔やみ切れません。私にとってのマーチンは、加川良氏、そしてナターシャセブンで数多く音源を残してくれた故坂庭省悟氏への憧れから、D−35でしかないのです。しかも某ネットオークションで偶然見つけた1974年製。74年と言えば高校生の私が指をくわえてナカイ楽器のウインドウを見つめていた頃であり、今のユニットの相方の彼女や、それに誰より人生の相方である我が女房殿に出会った年でもあるのです。

 坂庭省悟さんが亡くなった次の朝、D−35が我が家にやってきました。あれからもうすぐ一年、月日の経つのは早いものです。

 我が家には3人の息子が居ます。私が「ともじ」という名前なので、長男には「や」だけ貰って、まさや。そして次男:じゅんじ、三男:しょうご と続きます。
許せ、息子たち。

 私は子供たちに、物事全てにおいて、無理やりさせることはしませんが、いつかギターを覚えてくれたら、1曲でも良い、一緒に演りたいものだと思っています。そのために、いつでも手の届くところに、ギターを1本、壁に掛けてあります。ただし、うちのギターで一番の安物ですが。

 マーチンには触らせないぞ!!


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