2004年12月24日
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「税別601万円のギター」
 
(ゆつ☆/38歳/埼玉)
 


ゆつ☆と申します。2004年3月に戦うオヤジに登録しました。

私がギターを弾くきっかけとなったのは、中学生の頃にさかのぼってお話しなければなりません。元々は音楽には全く興味が無かった少年でしたが、中学生の時に親父が大工をしいる関係で、新築している施主さんからの不要品ということでモジュラーステレオを貰ってきました。モジュラーステレオと言っても今は知らない方が多いと思いますが、ようするにラジオとアンプとレコードプレイヤーが一体となった物です。

初めて聞くステレオという素晴らしい音響機器の音色に、当時とても感動しましたのを今でも鮮明に覚えております。当時は、テレビでザ・ベストテンという音楽番組が全盛で、私が生まれた初めて購入したのは八神順子の”水色の雨”の入ったアルバムで、何回も繰り返し聞いたものです。

中学2年生までは、部活動で一つ上の兄貴と全国中学校スキー大会に出るために真剣にアルペン競技スキーをやっておりましたが、祖母と祖父が入退院を繰り返す時期と重なりまして、残念ながら引退せざるをえなくなりました。

そんな中学時代が終わり高校生になった私ですが、中学の時にしていた厳しい部活動はもうウンザリしてましたので、高校になったら“文化部”に入ると決め、ギター部にあっさりと入部。

私の高校は、ギターといってもクラッシックギター部しかなく、文化祭等の発表会にはクラッシックのアンサンブルをしておりましたが、私は運動部出身で腕力があることを見込まれ“ギタロン”“コントラバス”という楽器を担当しておりました。クラシックとは言っても、発表会以外では殆どの部員はフォークギターでフォークソングなどを弾いたりするとても自由な部で、中学時代の体育会系の部と大違いでした。

そんな訳で、私も大好きなフォークギターで中川イサトのコピーを始め、20年以上前ですが群馬県の高崎駅にあるロックイン新星堂という楽器店で、月に一度のジョイントライブしていたのです。その頃は、インストを弾く人が少ないため、私の弾く中川イサトは結構うけました。

ギターを満喫した楽しい高校生活もあっという間に終わり就職しましたが、何を血迷ったのか、働きながら大学(夜学)に通う生活がいきなり始まりました。3月までは高校生でしたが4月からは社会人&大学生というとても忙しい日々が始まり、お決まりのホームシックにどっぷりと嵌って「東京って嫌だ〜!群馬に帰りたい!」と毎日考えておりました。

当時は地元に彼女が居て、群馬県に戻りたくて仕方なかったわけです。それでも何とか4年で大学も卒業することが出来、やっと自由になりました。でも、暇になると何もしないで居られない私は、ゴルフ・テニス等々いろんな物に手を出しました。でも結局は中学までやっていた競技スキーを再開する事になったわけです。再開と言っても28才の私は単なる暇つぶしだったのですが、凝り性のため、国民体育大会に出るまでになりました。

でも楽しい事は続かず、同居している家族が癌で入院することになり、35才で再びスキーを引退となりました。

家族の癌の方は半年程の入院で何とか助かりましたが、とてもスキーをする状況でもなく暫くブラブラしていたのですが、今年の正月に暇つぶしに久しぶりにギターをケースから取り出して胡座をかきながら懐かしむように昔の曲を暫く弾いていたのです。そして、トイレに行こうと立ち上がろうとしたとき、痺れた足では私の体重を支える事が出来ずに、なんとギターの上に尻餅をついてしまったのです。そんな訳で無惨にも私のギターは壊れてしまいました。

てな訳で、私は憧れのマーチンを物色してましたところ”戦うオヤジ”を見つけ、めでたく3月に登録させて頂きました。それからは3月に初めてTVで見た”押尾コータロー”の生ライブでビックリし、早速DVD&楽譜を注文しコピー開始。

4月は、車を買うつもりの貯金でD-45をはじめ沢山揃えました(笑)。5月には自作ギターを製作開始。8月に処女作の自作ギター(予定販売価格601万円)を披露がてら、戦うオヤジ登録後、納涼会に初デビュー。
・・・と、とても落ち着きのない”ゆつ☆”ですが、今後ともよろしくお願いします。m(_ _)m


追伸
ただ今、2作目の自作ギター制作中です。
2005年早々には披露できると思いますので、皆さん可愛がって下さい。

 
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