2005年2月17日
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「ギターの思い出(音楽とともに)」
 
(ハミングバード/46歳/東京)
 

私が最初にギターに興味を持ったのは、ラジオの深夜放送からでした。
そのころはDJのことをパーソナリティと呼んでいました。オールナト・ニッポン、セイヤング、パックインミュージック、などに、吉田拓郎、南こうせつ、山本コータロー、谷村信司、泉谷しげる等の当時のフォークシーン(1970年代初頭)を彩る大物がパーソナリティを努めていて、彼ら自身の曲及び当時のフォークシーンのいろいろな曲をオンエアーしておりました。

当時中学生だった私は「歌謡曲でなくTVにも出演しない、自作自演でフォークギターを演奏しながら歌う彼ら」に憧れ、近くの楽器店で3000円のガットギターと、フォーク大全集(コード譜面付き)を購入し、知っている曲をつま弾いていましたが、やはりFとB♭はうまくコードを押さえられなかったような記憶があります。

学校にギターを持っていっても「クラッシク・ギターじゃないか。禁じられた遊び弾ける?」などと言われ、ではこれでどうだとばかりにガット弦をスティール弦に張り替えて、中学校の昼休みの校内放送でRCサクセションの「僕の好きな先生」を歌い弾きしたところ、学年主任の先生から「先生を馬鹿にしている。」と大目玉をくらいました。でも、本来先生を馬鹿にするとかの歌詞ではなかった気がするのですが、当時の中学生はおとなしいもの。ギターの校内持込は禁止となりました。結局そのギターは、大学受験に失敗した友人にあげました。


時は経て私も高校生になり、音楽の趣味も洋楽に広がっていき(FENとか湯川れい子さんの全米トップ40を聞き出したため)、それまでLPレコードを蓄音機で聞いていたのですが、さすがにそれでは音質がわからないだろうと思い、お年玉を頭金に丸井でローンを組み(高校生が!)トリオ(今は無きオーディオメーカー!)のコンポーネントステレオを購入し、毎月1枚をノルマにLPレコードを購入しようと考えた結果、月々の小遣いと昼飯代の節約だけではどうしても勘定が足らず、建前は合唱部に籍を置いておりましたが、実質、帰宅部いやバイト部となって、御茶ノ水近辺の出版社で本の梱包のバイトをしました。

その時、御茶ノ水近辺の楽器屋でAriaのF-120というギターをなぜか5000円くらいで購入してしまいました。やはりその当時好んで聞いていたウエストコーストミュージックに影響されての衝動買いとしか思えません。このギターは本当によく弾きました。


大学に入ってから当時はやりの?ユースホステルを利用した旅行研究会に入部し、日本各地を国鉄のワイド周遊券を利用して北は北海道、南は九州・鹿児島まで旅行しましたが、大きなリュクサックを背負い、片手にビニールケースに入ったF-120を持ち、宿泊先のユースホステルだけではなく、気が向けばその辺でギター片手に歌など歌っていたものです。

大学3年生のころ、丁度松山千春がブレイクした時たまたま晩夏の北海道を6〜7名で旅行した時、足寄の松山千春の家の前で「季節の中で」を歌ったり、良い天気の摩周湖の展望台で「霧の摩周湖」を歌ったり、あと拓郎の「落陽」はどこでもよく歌っていました。


そんな思い出のギターも、私が結婚して息子が3歳になった時、その息子がギターのネックとボディをポッキリ折ってしまいました。丁度30歳ぐらいの時ですから、AriaのF-120の寿命は13年ぐらいのものでした。今でも無事であったらいい音出しているかなぁ、とは思いませんが、思い出はたくさんありました。

それで、またお茶の水近辺の楽器店に行って今度はMorrisW-350を購入しました。大きなサンバーストのギターで、ミディアム・ゲージが良くマッチしてました。このギターは音量もあり好きだったのですが、昨年この「戦うオヤジの応援団」を知り、やはりマーチンでなければだめだと思い込み、MorrisW-350をマーチンD-18購入時に下取りに出してしまい、もう手許にはありません。今はこのマーチンD-18一本のみです。他のギターを今後購入するか未定ですが、今はこの一本のギターを大事に弾き育てたいと思っています。

ギターの思い出というよりは学生時代の回想になってしまいました。やはり、多感な時期をともにしたもの(友人、音楽、ギター、女性?)は忘れがたいものがあります。


 
 
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