2007年2月4日
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「私が愛した あの歌この人」
 
(はれ・だびどそん/1942年生/埼玉)


福岡の北の町で生まれた私は、子供の頃は、西鉄ライオンズの豪快な野球や、山笠まつりに夢中で、勉強はまったくしない普通の子供でした。
その頃聞いていたのは、浪曲(浪花節)で、いわゆる、“旅〜ゆけば・・・駿河の〜湊・・・茶の香り〜” ってやつでした。

遠足の後の感想文に「途中何の話も無く・・」と書いたら、数日後たまたま聞いていたラジオから、学校の先生が「児童の作文の中に(途中何の話も無く・・)と書いてあり、困ったことだ。」と、話しており えっ!浪曲って悪かとね、と思ったものです。

高校時代は、ラジオのFENから流れてくる、TOP40を聞き順位を書き取り友達と見せ合ったりして、アメリカン50’を特に、エルヴィス パット・ブーン リッキー・ネルソン等が好きでした。

高校卒業後、東京に出て働き、純情な田舎の、まだ少年として、平凡を絵に描いたような生活の日々でした。
     
そんなあるときラジオから流れてきた音楽を聴き、鳥肌が立ちました。
それは、今まで聴いた事の無い歌で、歌手は心の模様を、喉から搾り出すように歌い、聞いている私の胸に、深く入り込んできたのです。
それが私と、カントリーミュージック、ハンク・ウィリアムスとの出会いで曲は”Long Gone Losome Blues” で、この時のことは、今でもハッキリと覚えています。
(このように、鳥肌立った曲が実は、もう1曲あります。ボブ・ディランの”風に吹かれて”です)

その頃、習ってたクラシックギターの先生が、カントリーバンドで、スチールギターを弾いていて、メンバーに入れてもらい、ギターはストローク奏法しかできず、ましてやフィドルやベースは尚のこと、となるとヴォーカルしか無いと言うことで、ハンクを真似て声を絞り出して、歌ってました。
その頃は、アマチュアバンドは少なく、ヘタクソな歌のバンドでも結構需要があり、あちらこちらのダンスパーテーだ、夏祭りの余興だと、色々と楽しかったですね。吉祥寺の歌声喫茶“ともしび”にも出たっけ。

その頃使ってたギターは、名の無い重くて、音も悪い奴でしたが、今は人にあげてしまい、手元にありません。
又、ライブも良く見に行きました。新宿の”ラ・セーヌ”では、ジェリー藤男が歌ってる最中に、席を立って出てゆこうとした客に、「歌の途中で、出て行くんじゃない!!」と、怒り元の席に戻らせたという事がありました。
当時は、歌の途中で席を立つということは、歌手に対して失礼な事でありやってはいけない事でしたね。

今でも、私は余程のことが無い限り、歌の途中で席を立つ事はしない様に、歌が終わってか、1ステージ終わってからにするように心がけています。
     
吉祥寺のライブハウスでは、ジミー時田とマウンテンプレイボーイズのライブで、ちょうどその日は、あいにくの大雨で、客の入りも悪く、私を含め女性2人その他数人で、バンドにとっては最悪の条件にもかかわらず、ジミーさんは、いつもの様にピシッとした姿勢で、熱唱してくれました。
ライブが終わっても、雨はいっこうに収まらず、ジミーさんは“よし、それじゃーそこまで送って行くよ”とステージ上から。私は思わず“ばんざーい”と叫びました。すると、ジミーさんにジロッと睨まれてしまいました。ハハっ野暮なわたしでした。

一時盛況だった、カントリーも衰退し世の中はフォークに移行し、我バンドもあえなく解散し、私もフォークを好むようになり、ヤマハのFG160を購入し高石友也や岡林信康に夢中になり、渋谷だったか目黒だったか、都内の教会で行われた、岡林さんのライブを見に行ったりしました。
当時のその様子は、NHKで放送中の「芋たこなんきん」とそっくりで、とても懐かしいです。

気がついたら、長文になり申し訳有りません。これで終わりにします。
有難うございました。



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