2007年3月14日
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「私とギター、フォークソング」
 
(HAL/1957年生/千葉)


ピアノが得意な母は探り弾きをするようになった小学校低学年の私にピアノを習うことを始めさせた。ピアノは私の音楽性を育む事に大いに貢献してくれており、母には感謝である。その母が良く遊んでいたウクレレが、ギターの世界への入り口になった。(そのウクレレは今でも実家のピアノの上が定位置で健在である)
小学生であった私は幼稚園の教師で帰りが遅くなる母と外食の機会が多く良く映画を観に行った。加山雄三の若大将シリーズである。私の憧れは加山雄三になった、当然ギターが出てくる。その頃家にはギターは無かったので母のウクレレで加山雄三を歌っていた。

中学に入って漸くギターを誕生日プレゼントで手に入れた。近所にギターの先生が居て、クラシックギターを3年位みっちり教わった。その頃良く聴いていたのが赤い鳥であった。素晴らしいコーラスに魅了されていた。ギターでは「空よ」とかジョーンバエズなどを弾き始めていた。
父の仕事の都合で転校したのだが、その時前の中学で一緒にギターを弾いていた友人がテープを作ってくれた。自分の唄を吹き込んだライブテープだ。彼の選曲は、私のそれまでのレパートリーを一気に広げてくれた。そこには岡林信康、高田渡、加川良、五つの赤い風船(西岡たかし)、遠藤賢司、などなど、それまで知らなかった世界があった。
YAMAHAのフォークギターを手に入れ、1970年の中津川のライブレコードを聴いた・・・所謂70年代フォークとの出会いであった。

そして、高校時代、仲間たちはヘビーロックに傾倒していた。私もどんどん巻き込まれたがベースやドラムを覚える良い機会にもなった。そのロックの関連でCSN&Yを知った、AMERICAが「名前の無い馬」を売り出した。そんな夏休み、米国を旅行する機会に恵まれた。カリフォルニアのキャンプ場でAMERICAをフィーチャーした学生のバンド演奏を聴いた。かっこ良かった、音も凄かった・・・マーチンとの出会いであった。

大学に入り、改めて米国に行く機会を得た。ボストンの大学の寮でセミプロのミュージシャンと出会った。その時に、彼から譲り受けたのが今の私の愛器D−35である。ハカランダが何かも知らない私であった・・・

就職してからは体調キープや仲間作りからスポーツ系のクラブ活動に精を出していたが、軽音楽クラブからの誘いがありコンサートに出演したりも時々あった位で、ギターは時々引っ張り出して弾いてみる程度になっていた。

それから結婚とか転勤とか・・・子供たちにはピアノを習わせるようになった。ピアノの発表会では中々先生のideaが素晴らしく、子供達の演奏の他に、両親や友達同士でのアンサンブルをやってみるという企画があって、実はご両親が某オーケストラの団員でオーボエとクラリネットの合奏をやってくれたり・・・で、よせば良いのに私は弾き語りを志願!何年ぶりかでステージの人となったのだった。「放浪者の子守唄」(ウディガスリー)・・・

その後の活動は中学生のバンドに演奏の機会をと、地域の文化祭での企画をしてステージ設定を手伝ったり、地域の文化祭では沢山のサークルが発表するのでその舞台設定や音響のサポートをするなどの活動がメインとなっている。例えばこの文化祭なども「おやじ」の為の場として企画など出来ると面白いと考えているところである。

皆さんで楽しめると良いですね




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