2007年11月14日
<エッセイ一覧へ>

「ブランク・・・再び唄うために不可欠だった時間」
 
(オカヨシ/1962年生/愛知)


ブランク=白紙、空白の期間。
約15年ぶりに自作曲を歌い始めた僕も今まさに、ブランクで失った時間を取り戻すべくリハビリの真っ最中にいる。

思えば僕は、約15年間、“歌うたい”としての活動は封印していた。
その間、ずっと音楽は続けていたけど、バンドの一員(伴奏者)としてベースやキーボードを担当したり、PCに向かってカラオケ制作とかアレンジとか、すなわち裏方=サポートメンバーとしての活動ばかりだった。
自分がフロントマンとしてライブをやるときも「ビートルズ・コピー」であったり「ウクレレ・インスト」であったり、オリジナルソングとは違う世界で、とにかくお気楽にエンジョイしてた。

その間、多くの友人・知人から「もう自分の唄をやらないのか?」って何度も何度も聴かれたけど、いつも答えに困ってた。明確な答えが自分の中にも見つからなかったから曖昧な態度でごまかしていたように思う。

長い長いブランクを打ち破るきっかけになった出来事は、あるシンガーの死だった。
東京時代に出会った「T.K」さん。
7歳年上で、当時19だった自分にとって彼の紡ぎ出す唄の世界はとても遠く深い、雲の上のような憧れがあった。

夕陽が河を渡っていく。女は男の帰りを待ってる。誰もが誰より憎いのが、自分だと気がついて人は優しくなれるものさ(夕陽が河を渡る)/ 星が流れる、願い事ただひとつ、いつでも君と笑って生きたい。僕がおじいちゃん、君がおばあちゃん。笑いジワ、二人の顔中いっぱい。昨日までのコトは口に手を当てて・・(笑いジワ)/ 永い長い旅でした。語り尽くせぬ旅でした。こんな私でもこの期に及んで、お名残り惜しいやら、せいせいするやら(死に行く春)/ 歩き疲れて草っ原に腰をおろし、夕陽の傾いた山を俺は見ている。はるか彼方を走る、汽笛鳴らすファンキートレイン、国道を走り去る乗合バス(カウボーイのように)/ ・・・・・

やがて故郷・熊本に移り住んだ後、彼は歌うことをやめ、ブティックのマスターになり、年賀状だけのやり取りが続いてた。・・・そしていつしか僕も自分の唄を歌わなくなってた。

彼が昨年1月に肺がんで亡くなったことは、今年の正月に奥さんから知らされた。「(オカボンと)出会えて嬉しかった」という言葉を遺してくれたらしい。自分の母親が亡くなった時と同じくらいショックだった。
彼がもうこの世からいなくなり、もう二度と声を聞くことも無い・・・それは自分にとって不思議な感覚だった。無意識に本棚から昔の「歌ノート」を取り出し、東京時代の記憶を呼び起こしているうちに「よし、唄おう」って決めた。
まずは自分の唄を。それから「T.K」さんの唄も(本人の前じゃ恥ずかしくて歌えんけど)「オカボン、好きに唄ってみ」って天国で言ってくれてるような気がするのだ。

2007年は「唄うたいオカヨシ・再デビュー元年」という位置づけになった。
ま、確かに若くもない、家族持ち、会社勤めの身で住宅ローン返済中・・・なれど、今だからこそ出来るコトだってきっとたくさんあるはず。
人はその人にとって最もふさわしい時にその役割が与えられるって聞いたことがある。誰の言葉だっけ?忘れた。自分が言い出したコトだったかもしれない。

・・・とはいえ、ブランク克服ってのは一筋縄じゃ行きませぬ。
忘れてる感覚ってのが多々あって、でもこの頃になってやっと少しずつ、ヨソヨソシさが取れてきたよな気がします。
でも「ブランク」ってきっと、ワインの熟成期間のようなもの。
味わいを増すために不可欠な時間だったに違いない。そんな風に思えるのです。




エッセイ一覧へ→
トップページに戻る→