2011年3月16日
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「想い」は、叶う。
 
(クージー/1963年生/千葉)


「戦うオヤジの応援団」を知ったのは確か2005年・・・
中国、上海で日系企業の駐在員として赴任していた私が日本へ一時帰国した際に実家の新聞を読んでのことだったと思います。

40代前半だった私は、「オレは、まだオヤジじゃない!昔の杵柄を持ち出してフォーク・ライブ?NPO? オレは現役だ!」と記事に批判めいた感想を抱いたことを覚えてます。それは、魔都上海で夢物語のような「音楽活動」に満足していたからかもしれません。

高校生から始めたギター。アリスやビリージョエルに影響を受け、いつしか毎日、日記のように綴り続けた歌詞。歌作りとライブ・・・時間さえ有れば歌詞やメロディを考えていた音楽馬鹿でした。

北京に比べ上海はロック不毛の地とさえ呼ばれていました。Barと言えば、ビートルズやオールディーズのコピーバンドばかり。特に上海人の経営者は集客ができればどんなバンドでもアリでした。中国人の若者の間でバンドが流行し始め、初心者のような若者でもBarのステージで流行歌を弾き語りするという光景が随所に見られ、かつて私たちが経験してきた生演奏、生バンドの需要がこの街にはあったのでした。

こんな環境ですから音楽馬鹿の私にとっては、右も左もわからない異国の地でも私の触手は敏感となり、ライブハウスに行っては腕利きベーシストと仲良くなったり、上手いギターリストがいるよと友人から紹介してもらったり、ローカルの食堂で中国民族楽器の名手がいると聞けば遠慮なく電話番号を聞き出しコンタクトしたり、国籍を問わず容易に音楽仲間を探し、いつしか自然とバンドメンバーが集まってくれました。



上海での音楽活動の中心は、出張や旅先で見て感じた中国の風景や日常生活での感動をもとに自身で作詞、作曲した「中国をテーマにした歌」。

中国の嫌な面は多々有るけれどこの国で「仕事をさせてもらっている」のだから良い面を歌詞にして上海生活をポジティブなものにしたいという想いを歌に込め、上海人の友人の紹介で知り合った中国全国の二胡コンクールで三位に入賞する実力を持つ上海出身の女性二胡奏者とのアコギ+二胡のチャイナ・ジャパン・フォークロックというスタイルが形成されていきました。(どんなジャンル??・・・笑)

中国での音楽活動(勿論、仕事も)を充実させる為に中国語は勿論、文化や歴史も勉強しました。

その甲斐あってか、ライブハウス(MCは、中国語)や現地企業の忘年会、新年会、記念パーティや新商品の発表会(某米系の新型携帯電話)などの出演、某日系航空会社の機内番組のBGMに曲が採用されたり、又、小泉首相(当時)の靖国神社参拝に端を発した反日デモが激化する中、中国人と音楽での民間交流をしている・・・と日系の地方紙に紹介されるなど日本では経験できない貴重な経験と音楽仲間という財産に恵まれていました。

「何かをしたい」という「想い」は、叶うもの・・・
それは、自分だけの力でなく、人との出会いによって
その「想い」を共有することで大きく開花できる。


ある意味、音楽に於いて、いえ人生に於いて上海が私に経験させてくれた貴重な実体験で、今も信条としていることです。

しかし、そんな日々は長くは続きませんでした。あの広い大陸を横断する出張での移動が祟ったのかエコノミー症候群を患い、現地で即、入院。緊急帰国となり私の上海での音楽活動は、突然、幕が降りてしまったのでした。

帰国後の療養期間は、健康を損なったことや大切な仲間たちや上海という環境と離れ離れになってしまったことで誰かの歌詞ではありませんが、ポッカリと心に穴が空いて何もする気になれない空虚な毎日が続きました。

あれから5年・・・

朝5時に起床、背広にネクタイを締め都内のラッシュを嫌い早めの出勤。あくせく仕事に追われ深夜の帰宅・・・。ギターを弾くのはもっぱら休日のお楽しみ。

その後も上海の音楽仲間との交流は欠かさず8年の歳月が経った。年に1回ではあるがギターを持って上海を訪れ、あの頃の「歌」を唄えることに今は、ささやかなシアワセを感じられるようになりました。

そしてすっかり「オヤジ」を自覚するようになった今年の元旦。
私は、「戦うオヤジの応援団」に登録した。





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