「私と音楽」 |
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(まちゃ/1957年生/東京) |
最初に音楽を意識するようになったのが小学4年生の時であった。同級生の女の子が、休み時間にPPMの『虹とともに消えた恋』を友人たちとハモっていたのを聞いてからだ。シュー、シュー、シュラルで始まる曲で、その曲が『虹とともに消えた恋』だと知ったのは、ずいぶん後になってからのことであった。ハモるということを知ったのもその頃だったと思う。当時、朝の若者向け情報番組であった『ヤング720』で、海外のアーティストの曲やグループサウンズが出演して演奏していたのを覚えている。司会が、黒澤久雄や北山修、大石吾朗、川口晶等日替わりで、毎朝この番組を観てから学校へ行ったものだった。小学高学年になると、モンキーズのファンになった。モンキーズは英国出身の『ビートルズ』に対抗するために結成されたバンドであった。モンキーズが主人公の米NBCコメディードラマ「ザ・モンキーズ」(66〜68年)というテレビ番組も日本で放映され、ショービジネスとして作られたバンドではあった。日本では「デイドリーム・ビリーバー」がよく知られている。「恋の終列車」「アイ・アム・ア・ビリーバー」が全米で2曲連続第1位となり、世界的な人気グループとなった。惜しくもボーカルのデイビー・ジョーンズが、今年の2月29日66歳で亡くなっている(合掌)。
中学1年生の時にビートルズに夢中となり、中2の時に「LET IT BE」を最後に解散したときは、非常に落胆したものである。映画館に「LET IT
BE」を友人4人で観に行ったのを今でもよく覚えている。ドキュメンタリー映画であったが、演奏シーンが多くあり感動した。映画の中で、ジョージ・ハリスンが、赤いシャツを着てギターを演奏しているシーンは非常にカッコよかった。今ではジョージも亡き人である。ラジオ深夜番組の「オールナイトニッポン」を聞きながらテスト勉強に励んでいたと言えば聞こえがいいが、ラジオから流れてくるPOPSに夢中になり、勉強ははかどらない始末であった。中3で映画音楽を聞き始め、カーペンターズやサイモン&ガーファンクル等を聴き、シカゴを聴いてブラスロックはいいなと思い、高校に入ってからは、フォークソングに目覚めた。
吉田拓郎のLP「元気です」を聴いてギターを弾きたいと思い、さっそく友人からガットギターを譲ってもらい、最初に覚えた曲が「結婚しよう」であった。ジャンジャンジャカジャカのストロークを一生懸命に覚え、Fコードに泣かされながらも何とか弾き語りができるようになった。井上陽水も地元出身ということでよく聴いたものである。かぐや姫の『神田川』がヒットして、それからはかぐや姫のLPばかり聴いていた。LP「かぐや姫ライブ」を聴いて正やん(伊勢正三)に憧れ、リードギターを練習するがなかなか上達せず、自分には才能がないのだと落ち込む毎日であった。友人がコピーして演奏しているのを凝視しながら、見よう見マネでコピーらしきものができるようになった。また高2の時は、プログレッシウ”・ロックのイエスやピンクフロイドを聴き、ディープ・パープルのリッチー・ブラックモアのギターに痺れ、クリームのエリック・クラプトンを神と崇めるようになった。高3の冬に『サボテンの花』を聴いてチューリップにハマり、自分も財津和夫やベースの吉田と同じ大学に入って音楽をやるんだと決心し、受験して合格。
大学に入ってからは、福岡天神にあるライブハウス「照和」によく行った。そこで当時まだデビュー前の長渕剛のライブを見た。生意気だけどギター上手いし、いい曲作るし売れるだろうなと思った記憶がある。入学直後財津和夫が在籍した軽音楽同好会に入ったが、1年でやめることとなった。3人でバンドを組んでいたが、音楽志向の違いにより解散。リードギター担当のK君は上京してスタジオミュージシャンを目指すと言っていたが、その後大学でも会うことはなかった。同好会では1学年上の先輩に、元ARBのギタリスト白浜久がいた(福山雅治のデビューアルバム『伝言』をプロデュース)卒業後刑務官になったと風のたよりで聞いていたが、まさかプロのミュージシャンになっていたとは・・・・。テクニックのあるギタリストを見る機会が多々あり、自分の才能のなさを痛感し、ギターを弾くのがイヤになったというのもあって、同好会をやめてからはギターの練習をすることもなくなった。、ジミー・ヘンドリックス、エリック・クラプトン、ジェフ・べック等のロックや高中正義、リーリトナー、ラリー・カールトン等のフュージョン、キース・ジャレットのピアノジャズ音楽、矢沢永吉の音楽もよく聴いた。
社会人になってからは音楽とも遠ざかっていたが、エリック・クラプトンのCD『MTV UNPLUGED』を聴いてからまたギターを弾きたいと思い、初任給で買ったヤマハのL-10を引っ張り出して練習を始めた。しかし、指が思うように動かず一人練習も長続きしなかった。そこでギタークラブを転勤先の松本で立ち上げ、相棒をみつけ音楽活動を再開。2年後東京に転勤となり、音楽活動も自然消滅した。その後、郡山に単身赴任した時に、ギター倶楽部に入ってデュオグループ結成、主にフォークを演奏したが1年後に再び東京に転勤となり活動休止状態で現在に至る。
やはり一人で練習しても長続きせず、発表する機会がないと継続して練習しないということもあり、今回戦うオヤジの応援団に入会することとなった。メンバーの皆さん、よろしくお願いいたします。 |
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