2012年7月15日
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「もしもギターが弾けたなら」
 
(Tommy/1948年生/千葉)


(応援団メンバー一覧の最近登録者欄にまだ名前が載っているのに、SPに一度も顔を出していないのに、登録から2週間余りで恐れていた事が現実に。皆さんのリレーエッセイをみて覚悟はしていたんですがあまりに早い山下さんからのメールでした。どうしようお断りしようかと考えましたが、メールの末尾の『次回、順番でお願いできるのは数年後になるかと思いますが』に、虚弱体質には数年後があるかどうかも自信がないので。)

 僕と音楽との出会いは、遠い遠い昔のことで曖昧な記憶を辿ると、今はもういない親父が聴いていた、ラジオから流れてくる三橋美智也、三波春夫などの歌謡曲を聴いたのが始まりでした。間もなくパラキンが日本語で唄う洋楽に触れ、やがて人生さえも変えてしまう程の衝撃を与えてくれたビートルズ。それから青春歌謡、GS、フォーク、ニューミュージック、演歌、カラオケ、etc。ずっと音楽と一緒でした。

 この間いつも思っていた。もしもエレキギターが弾けたらホテルカリフォルニアを、クラシックギターが弾けたらアルハンブラの思い出を、アコースティックギターが弾けたら拓郎を。
 あの時、ギターが弾けたら夕暮れの土手であの娘に恋を囁けたのに
 あの時、ギターが弾けたら僕も新宿西口広場で友よを唄えたのに
 現実はただ遠くから眺めるのがやっとでした。
 結局、ギターが弾けたらという思いだけで人生の大半を過ごしてしまいました。

 そんな父を横目でみながら、息子も娘も何故かバンドを組みギターを弾いており、子供にできるなら自分もできるだろうと、50歳をすぎた頃、息子と一緒にお茶の水へ出かけモーリスのアコースティックギターとエピフォンのエレキギターを購入しました。
 わざわざお茶の水まで行く程のギターではないのですが、サウスポーなため近所の楽器店にはおいてなかったので。いざギターを手にしたものの数ヶ月後には押し入れの奥に眠ってしまいました。

 やがて定年を迎え、ただ何となく日々を過ごし一年が過ぎた頃、このままではいけない何かしなくてはと焦り始め思いついたのが、若い頃から思いだけでできなかった、ギターを弾きながら大好きな歌を唄うことに再チャレンジしてみようと、ギター教室へ通いはじめ2年余りが過ぎました。この間、先生の弾くマーチンの音と自分のギターの音があまりに違うためD−28を、拓郎やるならJ−45だろうと衝動的な大人買いをしてしまいました。 

 しかし、現実は甘くはありませんでした。カリフォルニアもアルハンブラも遥か彼方の地でした。もちろん拓郎の後ろ姿も見えません。指は思うように動かず、押さえている弦と違う弦を弾いたり散々な毎日です。応援団のリレーエッセイを拝見しますと、皆さんの多くは、若い時からギターを弾いていて、ずっと弾き続けている方、数十年振りに弾きはじめた方、何れにしてもすばらしい演奏活動をしていらっしゃる方ばかりのようです。
やはり何事も若い時からやってないと無理だと痛感しました。そこで、無理はせずのんびりとコードが5つ以内の曲をやろうと決めました。

 そんな私なのに、習い始めて1年後、ギター教室を通じて知った、主にフォークソングを演奏するグループに加入し、その半年後には無謀にもグループ主催の演奏会に出てしまいました。200人程の聴衆の前で、頭は真っ白、喉はカラカラ、指はガクガク震えながら演奏したにもかかわらず、この時はじめて何ともいえない感覚を味わいました。
その後、公民館祭り、施設慰問など、コードを間違えたり、アルペジオで弾く弦を間違えたり、譜面で迷子になったりしながらもメンバーの皆さんの助けのおかげで楽しく活動しています。
 
 メンバーの一人が応援団の会員だったことからもう一人が登録メンバーになり、私もつられて、まだまだ未熟者で応援団にふさわしくないのに登録メンバーになりました。
 これまでの人生の大半は仕事以外での人との関わりは避けてきたのですが、残りの人生、ギターを通じてより多くの人との出会いを大切にし、大好きな桜を何度も観たいと思っています。
 
 どうぞよろしくお願いします。  ああギターが上手になりたい。






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