「40年ぶりの音楽活動」 |
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(ゼファー750/1955年生/神奈川) |
戦うオヤジの応援団に新規登録をさせていただきました。
さらに自己紹介の場も与えていただきまして感謝しております。
オヤ応との出会いは一昨年。八ケ岳。飯田の絵仕事界屋くん。
わたしも40年ほどのブランクを乗り越えてギターを再開して6ヶ月目でした。
そう遡ること46年。中学生の時。
PPMやキングストントリオ、などをアイドルに、ソルティーシュガーや赤い風船、高石ともや、ナターシャセブンなど聞いておりました。
バンドはソルティーシュガー型のバンドからブルーグラスに移りつつありました。
カントリージェントルメンのコピーが多かったですかね。
というか教えてくれていた人がそればっかだったので、スクラッグスは自分でやるしかなかった。
それとは別に赤い鳥型のバンドもやり始めていました。
高校が受験校だったこともあってバンドは高3に入り自然解消。
それぞれが遠く離れた大学に散り、いつしか音楽からは遠く離れてしまいました。
フルマラソンや蝶ちょ(写真撮影)やバイクを趣味として40年ほど医療従事者をやっておりました。
その間、音楽は全く聞いていませんでした。
バイク仲間のマイミクのそのまたマイミクさんと繋がり、SNSの中で仲良くしていたらその方のやっているバーでオープンマイクという催しがある。見においでと言うことになったのです。
っで、行ったのが町田のバー。
オープンマイクに出ていたのがらんぶりんまっくさん。
演っていたのは高田渡やら古川豪やら・・・・懐かしかった。
はまりました。そしていいなあ、俺にもできるかもと。
次はまっくさんが出ていたアメリカンフォークナイツを見学に。
このときにはもうギターをもう一度弾く気になっていたのです。
さあギターを探さなきゃ。実家に戻ってお袋に聞く。
「捨ててはいないよ」
探しました。納戸から屋根裏から床下まで。
結局押入れの奥から懐かしいギターたちが見つかり、修理が必要なものは全部神田のカワセ楽器に持ち込み、始まってしまいました。
2011年1月ごろです。
マーチンのD-28(1972)もトーカイのT1200RもGold Starもすべて復活を果たしました。
やっとコードが弾けるようになったころ会ったのが冒頭の界屋くん。
そしてオヤ応。
まだ一人で演奏できるほどの練習量でもなく、いろんなところのオープンマイクで思い切り恥をかきまくりました。
2012年1月。弟がいきなり病気で亡くなってしまいます。
Banjoを再開した直後だったので、そのときに少し歌う歌の傾向に変化が現れました。
12年9月には長野県蓼科でプール平音楽会を主宰するところまで来ました。
もちろん音楽監督はべつにベテランがいたし、出演者の皆様も手慣れたもので、私は場所の確保や連絡や宣伝や泊まりの手配に汗をかいただけでしたが。
10月でしたか?川崎駅の電車のホームでアコビーのJimmyさんをナンパしました。
オヤ応の繋がりを感じました。
2年間やってみて少し形が付いてきたかな、と自分でも思えるようになりました。
そこで満を持してオヤ応へ。参加ぁ!
オヤ応デビューは湯河原「楽」になりました。
これから参加が増えて行きますのでよろしくお願いいたします。
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