2014年11月5日
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「歌で綴る自分史」
 
(MOTO/1958年生/大阪)


 昭和33年10月、大阪湾岸の小さな町で私は生まれました。
歌好きの母、11歳上の兄、9歳上の姉がいる環境で育ちました。乳呑み児の頃、私は夜鳴きがひどかったそうです。でも、母親が『芸者ワルツ』を歌いながらあやすとすぐに泣き止んだそうです。
言葉をしゃべり始めた頃、当時流行ってた『黄色いさくらんぼ』(ゴールデン・ハーフ版じゃない)の合いの手が得意だったと聞きます。姉や従姉妹のおねえちゃんが、面白がって何度もやらせたとか。お姉ちゃんたちが、♪わ~かい娘が・・♪と歌うと表情たっぷりに『うっふ~ん!』とやったそうです。
 
 保育園年長の時に、学芸会の舞台でソロデビュー(笑)。先生のオルガンに合わせてディズニーアニメの『バンビ』の歌を披露しました。今でもキーが高い方ですが、ボーイズソプラノだったようです。♪小鹿のバンビ~は 可愛い~いな~

 小学校に上がると、兄や姉の影響で、歌謡曲やGS(グループ・サウンズ)、ビートルズ、ベンチャーズを聞いて育ちました。私は、ザ・タイガースが好きで、中でも『廃虚の鳩』なんかよく歌ってました。
のちにフォークソングにどっぷりと浸かるんですが、この小学校時代は、ザ・フォーククルセダース『帰ってきたヨッパライ』や古井戸『さなえちゃん』、『ケメ子の歌』等コミカルなフォークソングが好きでした。また、TV番組『ヤングオーオー』で聴いたシモンズのハーモニーのとりこになりました。
 
 中学生になって深夜ラジオにはまり、『ABCヤングリクエスト』『MBSヤングタウン』『OBCヒットでヒット、バチョンと行こう!』を曜日で聞き分けて、深夜1時になったら『オールナイトニッポン』、さらに試験前なんか徹夜して『文化放送 走れ!歌謡曲』なんか聴いてたりして。
この時代、ほんとにいろんな歌を聴きました。赤い鳥、五つの赤い風船、岡林、ナターシャセブン、拓郎・陽水・かぐや姫、歌謡曲では、小柳ルミ子、麻丘めぐみ、天地真理、同い年の中3トリオ、洋楽では、ビートルズ、S&G。私の周りでは歌が溢れていましたね。

 高校になると、誰かに伴奏してもらって歌うだけじゃなく、弾き語りをやってみたくなりました。高1から高2になる春休みに、『ヤンリク』の素人参加コーナー『ミキサー完備スタジオ貸します』に仲間6人で出演しました。演目はビートルズの『Get Back』と『Hey! Jude』。生キダタロウさん、見ました。後に知るのですが、妻もこの放送を聴いてたと言い、ハイトーンボイスが記憶に残ってたようです。

 この後、すぐにギターを買って弾いてみるのですが、中学校の音楽の時間にガットギターを少し弾いたくらいなので、サッパリ弾けませんでした。
皆さんも経験されたと思いますが、C→Em→F→Gのいわゆる循環コードで、どうしてもFだけがちゃんと音が出ないのです。
このコード進行だけで弾ける加山雄三さんの『君といつまでも』に挑戦するのですが、三連符のリズムも刻めず、Fも鳴らない。 嫌になって、しばらくギターは部屋のインテリアでした。

 高2になって、秋の文化祭、ビートルズ等英語の歌を歌うのが嫌で、かぐや姫や風の曲をやりたくて、ギター練習を再開しました。そして、このとき大きな変化が。
私は左利きで、ボールを投げたり、蹴ったりするのは左なんですが、お箸も鉛筆もハサミも右を使ってます。それで、ある時、ポール・マッカートニーや松崎しげるさんが、左で弾いてるのを見て、自分もやってみたところ、バレーコードも音が出るし、ストロークプレイもしっくりくるんです。ただし、弦の張り方が逆なので、UPストロークとDOWNストロークがやりにくい。で、弦を逆に張り替えてみたところ、バッチリでした。

 それ以来、普通のギターをブリッジやサドルを細工して、ピックガードも貼り付けてパンダの顔のようなギターを弾き続けていました。
そして、最初に弾き語ったのが、かぐや姫『神田川』。
『妹』『赤ちょうちん』『加茂の流れに』、『22才の別れ』『僕の胸でおやすみ』・・・どんどんレパートリーを増やしていきました。
その冬のレコード大賞がたしか『シクラメンのかほり』だったと思います。あの布施明版のイントロが好きで、練習しました。
ヤマハのポプコンで中島みゆきさんが『時代』でグランプリ獲ったのもこの頃かと。

 大学になって『フォークソング研究会』なるサークルに入部しました。そこで、初めてピッキングというものを知りましたというか、教えてもらいました。今までは、ほとんどストロークプレイでしか弾いていませんでした。指やピックを使って1本の弦を弾くという奏法は我流の私にとって目から鱗でした。(笑)
ましてや、ギターインストなんて私の辞書にはありませんでした。
怖い先輩から、ご指導を仰ぐわけですが、思うように指が動きません。
で、だんだんギターが嫌になってきた時に、1年の夏の合宿でオリジナル曲を作るという課題を与えられ、詩を書くこと、曲を付けることに興味を持つようになりました。
19歳の青春真っ只中!! そんな中、出来たのが処女作『空へ』です。
好奇心旺盛な方はHPにて、お聴きください。(スマホでは、聴けません)

 大学時代は、授業を受けるよりもサークルの部室にいる方が多かったと思います。そして、いつも周りには音楽がありました。大学1年の夏休みに学内の掲示板で見つけた『富士山の山小屋でのバイト』で知り合った駒大生の方がいました。その方のところに秋に遊びに行ったときに初めて聴いた『ワインの匂い』というオフコースのアルバムに衝撃を覚えたものです。今まで聴いてきたフォークソングとは異質な、垢抜けたというか、なんと洗練された音楽なんだろうと愕然としました。メロディラインもそうだし、コード進行、そしてハーモニーの美しさ。それから3年間、オフコースとそれに感化されたオリジナル曲作りに、はまりました。

 卒業後、20年くらいは私の『音楽暗黒時代』です。ZARDやBEES、DEEN、ミスチル、スピッツ・・・。TVの音楽番組を見るだけで、コピーして弾き語りすることはありませんでした。
ところが、1998年、パソコンを購入してインターネットを始め、SNSでMIDIなるものを知りました。MIDIとは、色々な音色が入った音源を使って、PCに『この音色で、この高さの音をこの長さだけ鳴らしなさい』という命令(スコア)を打ち込んでいって、PCに演奏させるというものです。いくつもトラックを使って同時に演奏させられるので、オーケストラを指揮するような気分になれます。

 そして、それを利用して、懐かしのフォークソングやニューミュージックをMIDIファイルにして、HP上で公開するという楽しみが生まれました。どんどん曲数を増やしていると日本音楽著作権協会JASRACの課金問題が持ち上がって、音楽著作権なるものを知りました。年に1回、JASRACにHPでの使用曲を報告して著作権料を支払わなければいけないことになり、コピー曲はやめて、オリジナル曲のMIDIを作ろうと思いました。そして、それをカラオケとして肉声をMIXして、『生歌コーナー』としてHPで公開するようになりました。

 そして、現在では、『オヤ応』をはじめ、あちこちの音楽サークルに入会して、あちこちでライブ活動を行っています。声が出る限り、この先の長い?短い?人生、歌い続けて行きたいと思っています。

 皆様、長文に最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
どこかのライブ会場でお会いした時は、『大阪泉州の左利きのシンガーソングライター』MOTOを、どうぞよろしくお願いします。





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