2015年5月11日
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「フォークは未来をひらく」
 
(Zippy/1952年生/千葉)


 1969年に関西フォークの旗手、高石友也、岡林信康、中川五郎の共著として出版されたエッセイには、サブタイトルに「民衆がつくる民衆のうた」とあります。1970年の日米安保延長を目前にして、泥沼化するベトナム戦争に対する反戦ムーブメントが盛り上がる60年代末、高校生だった僕は、いや僕に限らず当時の若者の多くが、本気で「フォークは未来をひらく」と思っていたように思います。

 僕が初めてギターに出逢ったのは、中学2年生の頃でした。4歳上の兄が、叔父から貰ったクラシックギターで爪弾く「禁じられた遊び」は、身近に接する初めての生演奏でした。
兄の高校の文化祭へ行くと、男子生徒のギターに合わせて歌う女学生の輪があちらこちらの教室にできています。「高校に行ったら、ギターぐらい弾けないとモテないのか・・・」
そんな“不純“な動機で、僕は兄のギターを借りて特訓を始めました。

 その甲斐あってか、高校に入学する頃には一通りのローコードなら押さえられるようになっていました。となると、自分のギターを欲しくなるのが道理です。高一の夏と冬の休みに、僕は近所のガソリンスタンドでアルバイトをして、国産初のフォーク・ギター、ヤマハ FG-180を手に入れました。不純な動機で始まった僕のギター熱は、その頃からバンド結成という、より濃密な方向へ向かっていました。仲間はすぐに見つかり、バンド名は“Cherry Bon Bon”に決まりました。女性ボーカルをギター2人とウッドベースが囲む、当時流行りのピーター・ポール&マリー(PP&M)スタイルです。

 URC(アングラ・レコード・クラブ)を知ったのもその頃でした。同級生に借りた高田渡と五つの赤い風船のカップリングLPに魂を揺さぶられ、東京・原宿のセントラルアパートにあったURC(高石事務所)を訪ねた時です。会員向けに発送するレコードの梱包を手伝っていると、奥のソファーでは高石友也(現・ともや)さんがギターを弾いていました。
「歌で世の中を変えられるかも知れない」との思いを一層募らせたものでした。

 高校2年の秋、大学紛争の波は都立高校へも波及。僕の高校もバリケード封鎖されます。「フォークを歌うならデモや集会に参加するべきだ!」とバンド創設メンバーの一人は、ノンポリの僕を非難し、学生運動に没頭していきました。それでも僕は彼らの主張に興味が持てず、ピーター・ヤロウの“ツーフィンガー”や、“風船”のハーモニーをコピーすることに夢中でした。自分自身の思いを紡ぎ出す“オリジナル”に目覚めたのもその頃です。

 この年の暮れ、当時の若者に絶大な人気を誇っていた文化放送“セイ!ヤング”に、同級生4人のフォークバンド“Door Four”のメンバーとしてスタジオ出演しました。2曲のオリジナル曲を歌った番組コーナーの最後で、パーソナリティの早大教授、加藤諦三さんから「全国津々浦々のセイ!ヤング・メイトに何か訴えることはありませんか?」と聞かれた僕は、迷わず「フォークは未来をひらく!」と言っていたことを、最近自宅で発見した当時の録音テープで聴き、この言葉がフォーク少年の僕にとって“座右の銘”だったことを思い返しました。
 大阪万博の翌年、僕は高校を卒業し、"めでたく"早稲田予備校に入学します。“受験生ブルース”では♪砂を噛むような味気ない・・・と歌われた浪人生活でしたが、僕はギターから離れられず、何度かメンバーが入れ替わったCherry Bon Bonで自主コンサートを企画したり、アマチュア・フォーク・バンドとしてNHKのテレビやラジオに出演したりと、暇さえあれば曲作りに没頭する毎日でした。

 翌年、なんとか志望大学に入学したものの、その年の秋に学内で僕と同い年の学生が、活動家の学生らに殺害されるという凄惨な事件が起きます。当時創立90年。憧れて入った母校で起きた学生同士のリンチ殺人と、大学当局の対応に失望した僕はこんな歌詞の曲を作りました。

 坂の上の家

 もうずいぶん昔から
 坂の上には 家がある

 色褪せた 蒼い屋根の家を
 私は訪ねてみたいのよ

 まどかな日々を過ごしてみたいと
 みんな同じ言葉でいうの・・・

 大学時代、ピアノやドラムも加わって7人のモダンなグループに成長?していたCherry Bon Bonは、メンバーの就職準備などで1974年の秋に活動を停止します。このときメンバーから「何か音を残したい」という声が上がり、その年の12月、願いが叶って東京・高田馬場のBIGBOXにあったビクターレコードのスタジオで、最初で最後のマルチ・レコーディングをする機会に恵まれました。前述の「坂の上の家」を含めたオリジナル3曲の録音にかかった時間は約8時間。更に、年が明けてからも調音とトラックダウンに10時間以上かけて、アマチュアとしてはこの上ないほど思い出に残る音源を残すことができました。

 僕のフォーク・ソングとの関わりは、ここで終わっています。勿論、音楽・・・とりわけアコースティックな響きのフォーク・ソングはずっと大好きでした。しかし卒業後幸いにも念願の仕事に就いてからは、その忙しさに紛れ、高校1年の冬に買ったあのFG-180も殆どケースで眠ったままでした。

 それから40年近く、60歳の定年を迎え嘱託として再雇用されたちょうどその頃、御茶ノ水の楽器店で僕が大学に入学した1972年製のマーチンD-28sに出逢ったのです。大好きなPP&Mのピーター・ヤロウが弾いていたのと同型のスロテッドヘッドのレアモノです。切れた糸が繋がるような、そんな運命的なものを感じました。
 今年(2015年)の3月、何気なく見ていたインターネットで「戦うオヤジの応援団」の存在を知りました。なんと30年近く前から居を構える千葉県柏市、それも我が家から僅か数分の駅前通りのレストランが拠点とは! 早速参加の申し込みをしました。練習会にはこれまで2回参加させて貰いましたが、”練習”とは言え、人前での弾き語りは約40年ぶり。手も声も震えました。でも、はっきり実感しました。
「フォークは、オヤジの未来もひらく」と・・・・

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