2016年11月8日
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「エレキに憧れ、フォークギター買いました?!」
 
(ヒロッチー参鯔/1965年生/東京)


みなさん、はじめまして。ヒロッチー参鯔と申します。
入会してまだ間もないので、自己紹介の意味も含め、私のギターにまつわる話を書かせて頂きます。駄文且つかなりの長文ですが、お付き合い下されば幸いです。


昭和40年代。
物心ついた頃から、家にはいつもギターがあった。ケースにも入れられず、いつも剥き出しで部屋の隅に飾られてた(転がってた?)オヤジのギター。おもちゃ代わりに、暇な時に何となくオヤジの真似をしてイタズラ程度にボロンボロンと弄ってた。
当時のオヤジの部屋には、割と立派なオーディオ・コンポのシステムが設置してあった。レコードラックにはビートルズやジェフベック、サンタナなどの洋楽LPやシングルが山ほど入っていて、たまに忍び込んでは針を落としてこっそりと聴いていた。ごく自然に洋楽に触れることができた、音楽環境には恵まれた幼少期だった。

小学5年生の頃。
2つ上の中学生の兄が「KISS」というロックバンドの情報を仕入れてくる。兄の話によると、彼らは顔に奇抜なメイクをして、演奏中に口から火を噴いたり、血を吐いたり、ギターから煙を出したりと、当時の子供には十分すぎるほどのセンセーショナルな話題が満載。唯一の情報源だった当時の人気TV番組「ぎんざNOW」でKISSのPVが紹介されるたび、ドキドキしながら食い入るように観ていた。当時の私には仮面ライダーやウルトラマンより、KISSが「スーパーヒーロー」になってしまったのだ。図工の時間にはKISSの絵を描き、家庭科の時間にはKISSの図柄のアップリケを作った。
もっとKISSが観たい…!KISSが聴きたい…!KISSを知りたい…!
でもその時代にはネットなどもなく、入手できる情報があまりに少ない。本屋で音楽雑誌を立ち読みしてもKISSに関する記事は数ページしか無く、TVでもまだほとんど取り上げられない時代。すると逆に興味がどんどん膨らんでいく。お小遣いを節約してやりくりし、レコード店へ走り、自分のお金で買った生涯初のレコードが、シングル盤の「デトロイト・ロック・シティー」。子供部屋にあったポータブルレコードプレイヤーで擦り切れるほど聴きまくっているうちに、他の曲ももっと聴きたくなり、再びお小遣いを貯めはじめる。

当時、LPレコード一枚の値段が2,500円。小学生にとって2,500円はけっこうな大金である。お小遣いをやりくりしてもなかなかその金額まで到達しないが、貯まるまでの期間もいてもたってもいられず、学校帰りには商店街のレコード屋へ足繁く通い、店のお兄さんにKISSのことを色々訊いて情報を仕入れる。そのうちにレコード店のお兄さんと仲良くなり、少しだけ視聴もさせてもらえるようになった。

いよいよ貯金が2,500円達成しそうだったある日。KISS初来日記念盤として、ファーストアルバムからサードアルバムまでの3枚をセットにした特別限定盤「地獄の全貌」がリリースされることを知る。
当時の価格で4,500円(T_T)。
小学生にとっては絶望的な金額。されど、限定版なのでこれがいつ無くなるかわからない!それに1stから3rdまでが一度に手に入れば、KISS入門盤としては十分すぎるほどの曲数だ。さらに、おまけに付いてくる特大ポスターやブックレット、刺青シール(ペーパータトゥー)も、ものすごく欲しい!!意を決し、ここまで貯まったお小遣いと、むこう数カ月分のお小遣いの「前借り」を親に交渉し、「清水の舞台から飛び降りる」どころか、「富士山の頂上からダイブする」くらいの決死の想いでついに3枚組アルバム「地獄の全貌」を購入!
早速、ゴルフへ出かけて留守中のオヤジの部屋へ忍び込み、ステレオコンポで爆音で3枚を一気に聴く。その時の、身が震えるほどの感動を今も忘れられない。…

1977年、NHKの音楽番組で遂に日本で初公開されたKISS武道館公演のライブ映像。
すかさず、当時まだ珍しいβ(ベータ)の家庭用ビデオデッキ(もちろんオヤジの部屋の…)で録画した。ビデオテープもまだ高価だった時代。夢にまで見た「動くKISS」の映像!!画面の中で「火を噴き」、「血を吐き」、「ギターから煙を出す」噂通りのKISSの過激なパフォーマンスに大興奮。これまた飽きもせず、友達を家に呼んでは繰り返し擦り切れるほど鑑賞する毎日。

やがて自分でもKISSの真似をしたくなり、ビデオを観ながらオヤジのギターを弾いて「雷神」という曲のイントロの音を拾って弾いてみたりしたが、全然同じように弾けない。やっぱりエレキギターじゃないとカッコいいロックサウンドは出ないんだ。…

小学校から中学校へ上がる間の春休み。
お茶の水や秋葉原、池袋などの楽器店へ通うようになり、用もないのにただただエレキギターを物色するようになる。映像や音楽雑誌でしかみたことのないあのレスポール、フライングV、エクスプローラー…ズラリと並ぶこれら「実物のエレキギター」に、目をキラキラさせる毎日。
各メーカーのカタログを持ち帰り、「どれを買おうか?」なんて妄想を膨らませるも、あまりに高すぎて買えるはずもないという現実。たまに、楽器店内でエレキを試奏してるお兄さんがいると、近くへ走って行ってその手元をじっと食い入るように凝視していた。
「変な子供…」たぶん店員さんたちは私の事をそう言っていただろう。エレキギターが欲しい!買いたい!…ん?でも待てよ。…買ったとしても、うまく弾けなきゃ意味が無い。買うのがゴールじゃなくて、カッコよく「弾ける」ことが目的なのだ。エレキって、どこで習えばいいんだろう…??

KISS二度目の来日公演(@日本武道館)の報せが舞い込む。
兄と同行することを条件に何とか親に許可をもらい、その前売りチケットを買うために銀座のプレイガイドに徹夜で並ぶ(コンサートチケットは売場に直接並んで購入する以外の方法が無かった時代)。兄と「ギターを弾けるようになるにはどうしたら…?」という議論を一晩中話していた。翌朝、やっと手に入れた2階席の前売りチケットを握りしめ、眠い目をこすりつつ帰宅。部屋にはオヤジのいつものギターが転がっている。見た目はエレキギターとはほど遠い。でも「何もやらないよりは」と、憧れのエレキギターを買うその日まで、今のうちに出来ることからやろうと決意。

ギターの弾き方について興味を持ちはじめてから色々調べるうちに、その奏法には単音ばかりでなく「コード」というものが存在することを知る。家の中に放置された、雑誌「明星」や「平凡」のおまけに付いてくる歌謡曲やフォークソングの歌本。歌詞の上に記してある、ローマ字と数字と♯♭などの組合せ記号の意味をはじめて知る。そこに記してあったダイヤグラムに従い「Dメジャー」のコードをはじめて押さえ、じゃらーんと弾いて、さだまさしの「雨やどり」の歌いだしを口ずさんだ。ああ、これが「弾き語り」というものか。ちょっと感動。…

その本に載っていた曲のラインナップは、TVやラジオで流れる歌謡曲や番組の主題歌が中心なので、耳覚えのある数々のヒット曲ばかり。たまにKISSの「悪魔のドクターラブ」などの譜面が載っていたが、「こういうのはエレキじゃないと上手く弾けない」と思い込んでいたため、ほぼスルー(今思えば、ここでの勘違いが運命のターニングポイントだったのかもしれない)。
「この本、結構使えるかも!」ということでしばらくはこの「明星」や「平凡」の付録の歌本が、私のギター教則本だった。ちなみに当時は商店街が縁日の日は、夜店でこの付録本だけが単体で安く叩き売りされていたので、バックナンバーをまとめ買いしたりもした。

中学生。
入学早々、春休みに購入したチケットを手に胸を躍らせて出かけた、初のロックコンサート。1978年4月、KISS二度目の来日公演。二階席にもかかわらず、耳をつんざくような爆音。顔が熱くなるほどの火柱。そしてキラキラと輝く4人のロック・スター(=スーパー・ヒーロー)達。耳鳴りがおさまらないまま帰宅するも興奮冷めやらず、寝る間も惜しんでギターの練習に没頭する。でも曲はフォーク。ギターはアコギ。そこに何の疑問も抱かなかった何も知らない勘違い少年。…

毎日の地道な努力の甲斐あり、少し弾き語りの真似事くらいが出来るようになった頃。同じクラスの後ろの席だった秀才のI君も、ギターをやっているという話をきく。即、意気投合。こんなに身近に同じ仲間がいたことが、まず嬉しかった。そしてさらに、彼の家には「フォークギター」なるものがあることを知る。フォークギター?オヤジのギターと、どこがどう違うの?次々に沸いてくる興味に我慢が出来るわけもなく、早速その日の放課後、I君の家へ遊びに行く。彼の部屋には、彼のお兄さんから譲り受けたという日本製のフォークギターがあった。初めて目にする、フォークギター。オヤジのギターとは、色も形も、何より弦の材質が全然違う!(どうやら、オヤジのギターは「ガットギター」「クラシックギター」と呼ばれる物であることを、後になって知ることになる。)
I君にそのフォークギターを借りて弾かせてもらうと、…指が痛い!えっ?弦が金属製??今まで散々練習して弾けるようになったと思っていたフレーズが、全然出来ない!!
そこでI君は「まだ練習中だけど…」と言いながら、私にアルペジオやスリーフィンガーを披露してくれた。なにそれ?カッコいい!どうやって弾くの??すると、I君はカセットテープに入った様々なアーティストの曲を聴かせてくれた。

かぐや姫、風、グレープ、吉田拓郎…どれもが新鮮な響き。これが「フォーク」か。I君は、これらの曲を手本に練習しているという。そして、見せてくれた教則本が「ヤングフォーク」という、フォークギター専用の月刊誌。私が教則本としていた「明星の付録」とは比べ物にならないくらい、ギター奏法の情報量が多い。軽いカルチャーショック。

聴かせてもらった曲のほとんどは、幼い頃にTVやラジオから何となく聴いた記憶のある曲ばかりだったが、改めて聴くとその中で鳴っているギターのアコースティックなサウンドに心を奪われる。「いつかはカッコいいエレキギターでハードロックをやりたい」という夢はその当時も変わらないが、今はエレキギターなんてとてもとても買えないし、借りる伝手もない(またこの頃は、エレキギターだけを買ってもさらに高価な「アンプ」や「エフェクター」なるものを買い揃えなければあのカッコいい歪んだ「ロックサウンド」が出ないという事実も知ってしまい、経済的にさらに絶望していた)。

よし。しばらくはI君と一緒に、このフォークギターを練習することにしよう。I君にも色々教えてもらおう。いつかエレキギター(と、アンプとエフェクター)が買えるその日まで…(信じられない話だが、当時の私のギターに対する認識は「フォークギター=入門編」「エレキギター=上級編」なのだと思い込んでいた。この勘違いのせいで、徐々に進むべき道がズレていくことになる)。

早速、I君から借りたカセットテープやレコードを胸に抱え、本屋へ立ち寄り「ヤングフォーク」を買ってから家に帰り、部屋のラジカセでI君の音源をダビング。それからは、もうとにかく何度も何度も聴いては巻き戻し、ギターのフレーズひとつひとつを忠実に耳コピーし、タブ譜を書いたりする日々に明け暮れていた。
いつしか私はフォークの魅力にどっぷりハマり、中学2年の時は夏休み中に家業を手伝うバイトをしてお小遣いをため、お茶の水のイシバシ楽器で遂に自分のフォークギター(Aria Dreadnought D-60)を買うのであった。

何故?憧れのエレキギターではなく、フォークギターなど買ってしまったのだろうか?恐らく、当時すでに兄がエレキギター&アンプを手にしていたので「いつでも借りられる」という可能性が出来たこと。そして、その当時のクラスメイトや校内の間で「フォークギター弾けるとモテる」という風潮があったことも理由であることは否めなかったかもしれない。…

フォークギターを手にした日からはろくに勉強も宿題もせず、ギターを抱いたまま寝てしまうほどギター漬けの毎日。気がつけば同級生の間で「フォークギターブーム」が巻き起こり、自分を中心に学校非公認の「フォークギター愛好会」まで出来てしまった。特にモテたわけではないが、クラスの女子からリクエストされた曲を得意げに弾く休み時間は、私にとっての至福の瞬間でもあった。そしてとうとう私のギターの腕前はI君をもしのぎ、学校内でも自他共に認める一番になった。ハーモニカとホルダーも買い揃え、さらに腕を磨き、長渕剛の真似事まで出来るようになった。

しかし、校内暴力で荒れすさんでいた当時の我が中学校では、文化祭でのバンド演奏や弾き語りが全面禁止されていた(過去、演奏中に不良のバカどもが暴動を起こしたことがあったため)。それでも、フォークギターを愛する仲間達と共に立ち上がり、中学校がダメなら近所の小学校の校長室へ直談判しに行き、休日の小学校の体育館を借りて「自主フォークコンサート」を開いたりするほどの情熱を燃やしていた熱い中学生時代。…

高校へ入学すると、迷うことなくフォーク部へ入部。ロック部に入る選択肢はもうなかった。お小遣いをためて買うレコードも、いつしかKISSではなくアルフィー(現在のTHE ALFEE)やチャゲ&飛鳥(CHAGE&ASKA)、長渕剛などの新譜アルバムに変わっていった(エレキギターでKISSの曲を弾く夢はどこへやら…??)。アコースティックギターのアンサンブルとコーラス&ハーモニーの魅力にすっかり摂り憑かれていた私は、高校で同じ志を持つ仲間を募り、アルフィーやチャゲアスの曲を夢中でコピーして、ライブハウスや文化祭でその腕前と歌声を披露した。

またその頃、並行して放課後にはドラムスクールにも通いはじめる(何故このタイミングでドラムを始めたかの理由についてはさらに長くなるので割愛…)。そしてドラムの腕前も「校内No.1」となった私は、ロック部からも応援の要請を受ける(ドラマー不足は今も昔も同じ)。
高校2年の文化祭に於いては、ロック部とフォーク部を掛け持ちし、フォーク部ではウエスタンシャツに身を包み、ハーモニー主体のギターアンサンブル曲を演奏し、一方ロック部では過激なメイクをしてカットTシャツを着てLED ZEPPELINの曲などを叩くという、ひっぱりだこの忙しい身分だった。

そして高校3年の時。同じ音楽部でありながら犬猿の仲だったフォーク部とロック部を掛け持ちする唯一の存在だった私は、自分がフォーク部の部長である権限も使い、顧問に掛け合って「フォーク部とロック部の合同演奏」を提案する。その理由は、当時のヒットチャートの主流は、圧倒的に「ニューミュージック」(今でいうところの「J-POP」)。ポップな歌声のシンガーの後ろにロック編成のミュージシャンがバックバンドとしてサポートしている形を、当時そう呼んだのだ(例:甲斐バンド、チューリップ、オフコース、チャゲ&飛鳥、etc...)

フォーク部は歌やコーラスが上手いけど、全員フォークギターしか弾けないから、曲も基本フォークしか出来ない。ロック部はエレキやベース、ドラム中心で迫力あってカッコいいけど、上手いヴォーカリストがいないのと過激すぎるパフォーマンスに女子ウケはイマイチ。
そこで、高校生活最後の文化祭を「フォーク部が歌い、ロック部がバックでサポートする」当時理想的なスタイルのバンドで締めくくるのはどうか?と、掛け持ちしている両方のバンドに話を持ちかけ(ドラマーは他校から腕利きの友人をゲストに迎えた)、ついに完全バンドスタイルでの「ニューミュージック」のライブを実現させた。
アルフィーを完コピし、綺麗な三声コーラスにベースとディストーションギターがサポートし、迫力あるツーバスドラムがリズムを支えた。その演奏は、他校から来た女子高生のファンクラブも出来たほど人気があった。

この時に確かな手ごたえを感じた私は、「プロへの登竜門」とされる音楽フェスへのエントリーをする。予選、準決勝と順調に勝ち進み、ついに決勝という頃。工業高校だった私やバンド仲間達は、そろそろ進学か就職かを選択する時期。「ここまで来たのだから、当然みんなでプロ目指して決勝へ!…」などと、頭の中がお祭り状態だったのは私一人だけ。他のメンバーはせっせと就職&進学の準備を進めていたのだ。
「え?誰もプロ目指していなかったんだ?…」取り残された私は、一度は某有名企業へ就職するも夢を捨てきれず、結局は「いばらの道」を選択し、今に至るというわけで…。

こんな私も現在は三人の子を持つオヤジ。第一子の長男は、社会人としての一歩を踏み出そうとしている。私はと言えば、まがりなりにも未だ音楽業界で仕事をさせてもらっている(仕事の詳しい説明をするとまた長くなるのでここでは割愛させて頂く…)。
フォークにハマっていた学生時代も、実は密かに自分の音楽的ルーツであるハードロック&ヘビーメタルを愛し続けていた私は、今はロック系業界で演奏活動をしている。

そして遂に。今なお憧れの頂点であるKISSと、2015年東京ドームに於いて、同じステージ上で共演を果たした。他にはMR.BIG、X-JAPANのYOSHIKI氏などとも共演したことがある。

夢って、本当に叶うものなのだ…。

若干話は逸れたが、今の私にとって、フォークギターは純粋な「趣味」となり、中学生の時に買ったAria Dreadnought D-60をかれこれ40年近く、今でも大切に弾き続けている。
もちろん、仕事に於いても音楽的な幅を広げるのに大いに役立っている。
 


以上、私とギターにまつわる話でした。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。




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