2019年5月10日
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「音楽と歩んだ半世紀」
 
(Fujoe/1955年生/神奈川)


10代の頃

♪~ 十年はひと昔・・という陽水の歌がありましたが、私の人生を半世紀以上も支えてくれた音楽との出会いは五つ昔前の中学生の時でした。

当時の人気TV番組『ヤング720』から流れたBeatlesのAnd I Love herに感動!
 

レコードを買って聞くうちに自分もギターを持って歌いたくなり、チューニング怪しいガットギターで、音楽誌『guts』や当時はフォーク誌だった『YOUNG GUITAR』見ながら独学でギターを始めました。

指3本で押さえるCコードにも手こずりFやBbコードで挫折しそうでしたが、頑張っているとBeatles同好者が集まり、勢いでヘッポコバンドを組み練習もせず、学校の催しに出てしまったのです。
 

臆面も無く講堂の舞台に立ち、全校生徒の前で延々と『迷?演奏』していると、突然「やめろ~!」と理科の先生から声援?を頂きました、声援にしては語気が荒いので「おかしいなぁ」と思っていると今度は「演奏やめろ~!」と、より明確な声援?

私たちが、我田引水に演奏継続していると何と緞帳(どんちょう)下ろされてしまい会場もざわつく中、私たちは、尚も健気に緞帳の中で演奏していると、とうとう電気を切られ、あえなく強制終了。

演奏下手は人を怒らせる と認識した14歳の冬でした。
 

その後もビートルズ主体で歌ってましたが、高校生の時、学校のキャンプで夜、焚き火を囲みながらクラス対抗で、出し物を披露しあっていると、隣クラスのオカッパ頭の生徒がギター掻き鳴らし、それに合わせてクラス全員が輪唱風に歌う姿を見て感動!ギターの手軽さと音楽が成し得る魅力に気付きました。
俗に言う「あの頃のフォーク」を、積極的に歌い始めた17歳の夏でした。
 

20代の頃


就職し、意気揚々とフォークギター片手に横浜へ来ると、会社の独身寮には音楽好きな寮生が大勢居て、その所有するドラムやPA装置があり、GS風バンドを組んで夏の寮祭で演奏してました。それを見て感動し、仲間に入れてもらい、バンドで演奏し歌う楽しさを知りました。

更には高中正義氏を崇拝する先輩から夜な夜な、音楽への熱い思いを聞かされる内に、私も熱くなって一緒に動き始め音楽仲間の組合を作って共同コンサート開催したり、ボーナスや貯金を全部注ぎ込んでレコード作ったり、若さと馬鹿さに任せ音楽優先の毎日を過ごした20代でした。
 

(蛇足: 当時、利用していたライブハウスに『杉山』 と呼び捨てにされ、こき使われていたスタッフが居ました。私は彼のいる前で得意になって歌ったり、店に居た高校生ヒロイシ君にドラム叩かせてバックバンドやってもらいましたが・・数年後、TVから、軽快なポップスが流れて「歌うまい!」と興味を持ちTV画面を見ると杉山清貴とオメガトライブでした。そしてTVに映し出された顔を見ていると、何と、あの時の店員 『杉山』 とドラムの高校生ではありませんか・・びっくりしたなぁ・・もぉ~ )

30代の頃

鎌倉の職場に異動し音楽センスの良い仲間と出会いバンドを組めました。メンバー同士、オリジナル曲を持ち寄ってアレンジを考え、音楽を創ることを楽しんだり、職場の昼休みに音楽会開催や送別会、組合行事などでも演奏したので、喜ばれ、更には興味を持った後輩が仲間に入ったり、音楽と仕事を楽しく両立できた30代でしたが、15年程活動し、各自の転勤などもありバンドは自然消滅しました。
 

40代の頃

バンド活動が無くなってギターに触れる事が少なくなり、淋しかったのでアルコールに触れる時間が増え(涙)、これでは、いかん!と、考え通勤時にMDからイヤホンで音楽を聞いたりしてましたが物足りなく、その頃midiの打ち込みで創る音楽が気軽に出来る環境になってき始めたのでmidiにバックバンドを任せようと思い、ヤマハQY300等にmidi打ち込む毎日でした。
 

幼い頃に寺内タケシとブルージーンズのコンサートを聞いた時、バックにストリングスの音が流れ、とても驚きましたが(おそらくオープンリールテープにオーケストラの生音を録音し寺内さんの演奏に合わせて流していたと推定)midiは手軽に、それが出来て、便利でした。

当初midiの音は痩せて、さもしい音だったのですが段々と良い音が開発され、当時の私には強力な助っ人でした。
 

またインターネットの普及で、遠い場所の音楽好きと掲示板で気軽に知り合う内に、福島県南会津の針生(はりゅう)音楽祭の存在を知り、南会津の方々とバンドを組んで演奏したり、数々の南会津の良さに触れて感激したので、『針生の夏』という曲を作り、提供すると、地元の皆さんに喜んで頂け、今でも皆さんが歌ってくれています。

PCやネットの普及で急速に音楽を包む形が変わっていくように感じた40代でした。
 

50代~60代

『教科書から童謡が消える』という新聞記事を読み、俄然、童謡に興味を持ち音楽志向を大転換しました。

図書館に通い、ひたすら童謡や唱歌の勉強をして、その奥の深さを知るとともに、大切に歌い繋いで行かなければ・・という思いを強くしたので、童謡・唱歌を年間通して季節毎に歌うプログラムを作り歌いつなぐ活動をしていましたが、ある日、私が55歳の時、東日本大震災が起きました。
 

音楽で支援が出来ないかと考え、福島県、相馬へ伺い、仮設住宅等で童謡・唱歌を歌うと御年配の方々に、喜んで頂いたので何度か通いましたが、徹夜の長距離運転が体に堪えたのか手足の痛みが起き、それがシビレに変わりブレーキを踏めず車の運転も、ギターを持つ事も出来なくなって音楽どころではなくなりました。

誰かの支えがないと歩けなくなり自暴自棄にもなりましたが、家族に励まされ、歩行訓練しながら、ウクレレを握ったりしていると、少しづつ歩けるようになり、またウクレレも音を出せるようになってきたので、現在はLittle Martinで練習しながら、音楽活動を再開し、介護施設等で、歌っています。

杖を持ってヨロヨロ訪れ、歌う私の姿は、逆にお年寄りから励まされたりしますが、童謡などを歌うと、とても、喜んでくれるので私も元気付けられます。
 

物心つく頃から半世紀以上も、ギターや歌、音楽と一緒に過ごせた事を感謝し、これからも、永く音楽に付き合ってもらえるように、また、経験から得た音楽の素晴らしさを少しでも後世に伝えられるよう、やって行ければ・・と、思います。 
長文読んでいただき、ありがとうございました。
 



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