2004年6月18日
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「ギター弾き始め」
 
(東田/49歳/兵庫)
 
私は高石友也のコンサートを見て、ギターを弾き始めた。

すでに受験生ブルースがヒットしていた。しかし、高石友也はこのコンサートで受験生ブルースを唄わなかった。コミカルな社会風刺、ベトナム戦争、人生の悩み等をテーマにたくさんの歌を唄った。
今まで聞いた事のない歌の世界であった。曲の間に話す内容も、落語や漫才とはまた違った面白さを感じた。決して二枚目ではないのに、高石友也がすごくかっこよく見えた。

「これは、女の子にモテルぞ・・・」すぐにギターを始めた。
やがて一冊の教則本を手に入れた。それにはコード表と称して、ギターコードというものが掲載されていた。Am、C、E7、色々と書いてある。コードを弾くと、曲のあるところまではそれだけで唄えるという事が分かった。
しかし、あるところまで来ると、今度はコードを変えなければならない事が分かった。これが厄介である。しかし、「友よ」は三つのコードで弾ける事を発見したので、これを一生懸命練習した。C、F、G7だった。Fの制覇は大変だった。

しかし、中学三年生になった頃には、何とか「友よ」を弾いて唄えるようになっていた。「友よ」が唄えるようになってからは、レパートリーも結構早いペースで増えていった。

そして、高校一年の文化祭で初めて「ランブリン・ボーイ」を唄った。当時から、厚かましかった私は、まったく上がらなかったことを記憶している。気持ちよかった。これが病み付きになった。女の子にモテルという目的は二の次になった。

従来の天邪鬼な気質も手伝い、流行り歌は唄わなくなった。少しマニアックな歌に夢中になった。あえて、拓郎や陽水は唄わなかった。捻くれた高校生だった。「どうだ、君達、こんな歌知らんだろう」という具合だった。そこに、岡林信康や中川五郎や高田渡や加川良や友部正人がいたわけである。

放送禁止と聞くだけでその歌にしびれた。ひどい話であるが、内容はどうでもいいのである。世の中に逆らっているという姿が、当時の私にはカッコよく映ったのである。しかし、それは長くは続かなかった。

それと同時に、シカゴ、GFR、ツェッペリンにディープパープルなどが来日した。そしてザ・バンドを見て、ニールヤングを見た時、強いカルチャーショックを受けた。こらあかん!と思った。

そして、私は唄う人から聞く人になっていってしまったのであった。
つづく・・・(なんでやねん!
 
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