2004年9月27日
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「それは、一本のギターから始まった」
 
(sas_kazz/45歳/茨城)


それは、今から三十年前、そう 中学二年生の時友達のうちで見たギターがきっかけでした。彼は上のお姉さんが、ギタークラブにいたことで以前から弾いていたらしく、なんと私の目の前で弾いていました。あのギターを友達が弾いている。フォーク歌手(レトロな言い方です)が弾いてるのはこれなんだ。

たまたま、叔父が楽器店に勤めていたのでお年玉やバイト代を貯めて。買いました。最近分かったんですが、東海楽器のトーカイハミングバードカスタムの廉価版でした。友達の持っているどんなギターよりもいい音だと自己満足をしていましたが。兄が数年後にヤイリのYD-302(当時は何の気無しに聞いていましたが・・・・)を買ったときにも俺のと同じジャンと思っていました。ところがその後時間がたてばたつほどいい音になるので驚いてしまいました。記憶の中にヤイリの文字が焼き付いた瞬間でした。

さて、最初のギターが家に届いたときにはおそるおそるギターの弦をつま弾き 初めて弾いた、練習したその曲はドナドナでした。Am E Am E・・・・・・

それから左指のたこを気にしながら、来る日も来る日も ギターに明け暮れた日々でした。気がつけば、吉田拓郎のギター楽譜本とフォークソング楽譜集と岡林信康の楽譜本・・・・とにかく毎日歌う日々でした。時が過ぎて学生時代、一人暮らしの寂しさなのか開放感なのか下宿屋の窓を開け放って、暗い夜に向かって毎晩のように歌いました。

一人暮らしを勧める拓郎の歌に刺激されて、仙台の家を飛び出した人生はギターと共に過ぎていきました。

大学時代もそうですが、なかなかギターを片手に歌いまくる仲間が見あたらず。いつも一人で弾いていました。そうそう、それは歌の種類がみんなと違うのも原因でした。当時の流行歌は、歌謡曲のようなフォークソングばかり。自分のうたは五年以上も前のフォークソング。岡林、加川良、友部正人・・・きっと五年早く生まれていれば、ちょうど良かったのかもしれません。

大学卒業と共に埼玉に移り住んだのですが。やっぱり廻りには歌い人はいなかったんですが、本物がいる吉祥寺やら渋谷やら、ジャンルは加川良、友部正人 はたまたジャズミュージシャン(大学時代はジャズにも興味を持った)を生で鑑賞していました。そんなことで肝心のギターはケースのなかでおなかがふくれたり、ネックが曲がったりしていました。

その後結婚して子育てをするうちにますますギターとは縁が無くなりました。四十を過ぎる頃から人間は新しいことを吸収することより、今まで吸収してきた物をかみ砕いて生きるようになりますが。娘が中学生になって自分がギターを鳴らし始めた頃の年になると、とっても急にギターが弾きたくなってきました。

最初のギターはふくれっ面をしていて使い物にならずはたまた、新しいギターは高そうだしどうしたものか悩んでいましたが、ちょうど仕事の関係で、簡単な講演会の講師を頼まれて。アルバイト代が転がり込みました。

思案の末、ギターを中古で買うことにしたのです。その頃はインターネットでギターを研究するなんて思っても見なかったので、近所のギターショップを探して その場で、新生ヤイリギターを手に入れました。
早速弾いたんですが 何かが違うんですね。昔のギターと比べると迫力が違うんです。それからそれからインターネットで検索の日々で本物のヤイリギターを手に入れて現在に至っています。(気がつけば4本になっていました。YD-302も兄から預かっています)

まだこの先上級ギターを手に入れようと思っていますが。本数が増えすぎて置く場所が無いのは皆さんと同じです。また、かつてのフォークソングやらをシーディーで聞き直すと。鮮明にギターの音が鳴り響いているので。こういう弾き方こういう鳴らしかたもあるんだなと感心し直してもいます。

戦う親父の応援団との出会いは約二年前、加川良の追っかけを始めそうになっていたときに。柏で彼のライブがあるという情報を察知したところ。なんと応援団なるものが有って自分と同じように中学時代、高校時代にギターに憧れた人々が面と向かって活動していたんです。

いつも大変興味を持ってサイト等をのぞかせていただいています。あいにく仕事が忙しくなっていまして直接なにもできないでいるのですが、陰ながらみなさんの活動を応援しています。今後ともよろしくお願いします。


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