2007年5月31日
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「僕とギターとの衝撃的な出会い」
 
(ゴーヤーマン/1954年生/沖縄)


僕は昭和29年生まれで53歳になります。僕の父親は若い頃からガットギターで古賀メロデイなんかを弾いていました。あの当時としては超モダンボーイですよね(笑)。僕は演歌が軍歌の延長のような気がして何となく苦手だったので、ギターを好きになる事もありませんでした。

僕にとってギターとの衝撃的な出会いは小学校の五年生(1965年)の頃です。
大阪の出張から帰って来た父親が何を思ったか、グヤトーンというメーカーのエレキとアンプを自分で弾く為に買ってきたのです。沖縄の楽器屋でも当時エレキは置いてなかったですし、ベンチャーズが日本でメジャーになる前でしたので父親は彼らを知ってはずはなく、物珍しさと宴会などで皆に披露するには最適だと思ったのでしょう。

それからしばらくして日本でエレキブームが始まりました。僕の家にエレキがあるという事が街の噂になり、知らない人がエレキを見せて下さいとやって来るほどでした。映画館で怪獣映画と二本立てでやっていたエレキの若大将を見てエレキってかっこいいと思って、見よう見まねで弾き始めました。何しろ当時エレキは不良の音楽との烙印を押されていましたが強烈な音とリズムは僕を虜にしてしまいました。ベンチャーズ、寺内たけし、グループサウンズ、今思えば練習さえすれば、僕らでもコピー出来た音楽だったのです。

その後、ジミヘンドリックスやクリームに傾倒して、坊主頭を帽子で誤魔化してダンスパーテイなどに出演していました。沖縄はまだアメリカの統治下だったのでプロの公演など見る機会もなく、米兵相手のクラブの換気扇から洩れる生の音をじっと聴いていました。

あの当時国産のギターとUSAのギターの差は歴然としていて、当然ながら憧れました。毎週のように米兵相手の質屋や楽器屋をガラス越しに覗いていました。ある日格安のUSA製のフェンダーのギターを見つけ、母親を拝み倒して買いに行ったらケースの値段だったって事もありました。悔しさと恥ずかしさで、その時の思い出は未だにトラウマになっています。

そんな僕ですから、授業中もギターの事しか頭になく成績もどんどん下がり始めました。中学三年生の時に進路指導の先生に、お前の成績では行ける高校はないぞと言われました。僕はさすがに高校に行きたかったのでギターを今後弾かない事を宣言して楽器を全部処分してしまいました。

高校にも無事入学する事が出来て、部活も空手部で、暫くはギターとは無縁の生活をしていました。その頃から巷ではフォークソングブームが沸き起こっていましたが、歌を口ずさむ事はしても、ギターを弾く事はありませんでした。

高校二年の頃、沖縄に五つの赤い風船がやって来ました。どうして彼らのコンサートを見に行ったのかは覚えていませんが、彼らとの出会いは、僕をもう一度ギターを弾いて歌いたいと思わせてくれました。あの遠い世界にのメロデイが何日経っても、頭の中をぐるぐると回っていました。

とはいっても手元にもうギターは無く、必死にバイトして東京に旅行した時にジャンボと言うメーカーの六万円のアコギを購入しました。六万円の価格は当時の物価を思えばとても高価で、旅費もすっからかんで、帰りは色んな港を経由する四泊五日の船で帰る事にしましたが、食事が付いていると思ってたのがそうではなく、二日間は飲まず食わずで我慢しましたが、三日目にようやく知り合いを見つけてお金を借りる事ができ、食事にありつく事ができました。あの時食べたカレーライスの美味しさは未だに忘れられません(笑)。その当時はまだパスポートの必要な時代でした。

大学は埼玉の熊谷にある学校に入学しましたが、早速フォークソングクラブに入りました。一つ上の先輩が五つの赤い風船を神と崇める位の人で、彼に誘われてコピーバンドを結成して小ホールを貸し切ってライブもしました。その先輩がYAMAHAのFG-500と言うギターを持っていましたが、彼のギターを弾かせて貰ってショックを受けました。何しろ弦が古くなっても良い音がするのです。僕のギターは弦を張った時は良い音はするのですが、弦が古くなると、しょぼい音しかしませんでした。

それがきっかけで、僕のギター購入熱が再び沸き起こりました。あの当時東京の楽器屋でもマーチンのギターはYAMAHAやカワセ位しか置いてませんでした。試奏などできるはずもなく、ガラスケースの中に飾られていたマーチンに憧れ続けていました。

1ドル360円時代でしたが、当時アメリカに行けば日本の半額でマーチンを購入する事ができると聞いてアメリカにギター購入旅行を思い立って埼玉の鉄工所で必死にバイトしてお金を貯め、アメリカに旅立ちました。

ロスの楽器屋で念願のマーチン購入となりましたが、半額とはいえD-28は予算的に無理でD-18とD-18Sのどちらかをという事になりましたが、僕は、低音の響きの良いD-18Sを選びました。ホテルに戻り、ロスの乾いた空気の中で弾いたマーチンの素晴らしい音は未だに忘れられません。

このギターはそれから30年以上僕と苦楽を共にしましたが、去年の12月に渋谷の楽器屋で格安のD-45を見つけて衝動買いしました。マーチンフリークとしてはD-45はいつか手にしたい夢のギターでした。いつかはクラウンではないのですが、部屋に戻ってギターを取り出した時はぽろぽろと涙が出て来ました。

思い返せば長かった平成不況で苦労の連続でした。ギターを手に取っても歌う気になれずに、Gのコードをぽろりと弾いてスタンドに戻す毎日でした。やっと不況から立ち直った僕に、D-45が良く頑張ったねってささやいているようでした。

それと同じ時期にネットで目にした戦うオヤジの応援団。僕みたいにずっとギターを弾き続けた親父達が全国にそんなにも大勢いるのに感激して早速入会させて頂き、出張のタイミングが合ったので柏の新星堂でのライブを見に行きました。同世代の親父達が楽しそうに人前で演奏している姿を見て、僕も仲間になりたいと思いました。

その後埼玉県の川口でのギター練習会にも参加させて頂きました。僕にとっては再び学生時代に戻ったようなとても幸福な時間を過ごさせて貰いました。

私は沖縄でファッション関係のお店を経営していますので、バイイングの為東京に一月の内二十日間ほどいます。東京の池尻大橋にアパートも借りています。

僕はソロよりもグループを組む事が夢です。PPM、五つの赤い風船、オフコース、その他ハモリ系のグループを組みたい方がいらしたらぜひ仲間に誘って下さい。




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