2008年8月24日
<エッセイ一覧へ>

「フォークソングとの出逢い」
 
(瀬尾はやみ/1946年生/奈良)


1964年の東京オリンピックの年、高校生の私は、まだ無名だった高石友也に出逢って人生が変わりました。

西成の鉄筋屋に住み込んで、フォークソング活動をしていた彼を知ったのは、友人に連れて行かれた大阪の森小路にあったバプテスト教会でした。ギターを弾いて唄を歌うというので、どうせ流しのギター弾きぐらいに思っていた私は、彼の奏でるメロディラインに聞き惚れていました。その時彼が歌った歌は「ベトナムの空」と「思いでの赤いヤッケ」という歌でした。よほど真剣に聴いていたのでしょう、歌い終えた彼は私に、例のいっぱいの笑顔で「興味ある?じゃあ、毎週月曜日においで、教えてあげるから」と言ってくれたのです。

早速質屋でぶら下がっていたガットギターを3000円で購入した私は森小路通いを始めました。おかげで入試に失敗、滑り止めで受けていた関西大学に入りました。大学でアメリカモダンフォークに出逢った私は、ウッディ・ガースリーという偉人の存在を知り、これこそ本物のフォークシンガーだと思いました。彼の忘れられない言葉があります。その言葉を紹介したいと思います。


俺たちに自分のことを「役立たず」だと思わせるような唄が俺は大嫌いだ。
俺たちが失敗するために生れてきたと思わせるような唄を俺は心底憎む。
年をとりすぎているからとか若すぎるからとか太りすぎているからとか、やせているとか顔が不細工だからとかあれやこれやの理由をつけて、俺たちが負け犬で、役立たずで、何をしてもものにならない−つまり生きるに値しないと思わせるような唄が俺は大嫌いだ。
俺たちから生きる勇気を奪い取り、からかい、運のなかったことや、これまで苦労を重ねてきたことを笑いものにするような歌が俺は大嫌いだ。

俺はそんな唄と戦うために、俺の最後の息、最後の血の一滴まで使って戦うために生れてきたんだ。
自分がどんな肌の色をしていて体格がどうで、外見がどうであろうが、そんなことは関係ない。
世の中がどんなに俺たちをぶちのめしても、いっぱい食わせるようなことをやったとしても、結局はこの世界は俺たちのものなんだということを証明するような唄を、これからも歌い続ける。
俺たちが自分と自分の仕事にプライドを持てるような唄を歌い続ける。

つまり俺の歌う唄は、ほとんどが俺やあんたみたいな普通の人間のために作られた唄なんだから。
 

高石友也、ウッディ・ガースリーから学んだこと、それはフォークソングに託された「使命」でした。その使命とは
「流行」とは元々無縁なところにある唄。
華やかなステージを登りつめるのとは正反対の、草の根の人々による手作りの唄。
名もなき民衆の中から生まれ、誰が作ったのかなど問題にもされず、口から口へと歌い継がれてゆき、歌い継がれるうちにいろんな人の手が加わり、そして変貌してゆき、その結果、常に民衆の心に生き続ける唄。
したがって「著作権」などという概念とは元々無縁な唄。
敗北意識や惨めさの中で眠り込ませるのではなく、自分への誇りや明日への希望や愛するものを奪い、傷つける敵に立ち向っていく勇気を与える唄。
演歌やポップスにはない、社会性がある唄。
生活のつらいこととか希望とか愛とか怒りとかをテーマにした唄。
アコギを通して人々に伝える、愛と連帯と闘いのメッセージが込められた唄。
こんな暗い世の中だからこそ、歌う価値のある唄。

それがひとつの頂点にまで上り詰めた歌が、69年に歌われた岡林信康の「友よ」でした。この唄の中にはフォークソングの条件として掲げられた「連帯・闘い・社会的広がり」のすべての要素が込められていました。

それらのメッセージが東大安田講堂の攻防を切っ掛けに崩れ去っていった真空状態、その真空状態の間隙をついて世に出てきたのが吉田拓郎でした。
「僕の髪が 肩まで伸びて キミと同じに なったら 約束どおり 街の教会で 結婚しようよ…」 私はこんなもの、フォークじゃないと考えました。
みなみこうせつの「いもうとよ ふすま一枚 へだてて 今 小さな寝息をたててる 妹よ」 も、もはやフォークと呼べるシロモノではありませんでした。

吉田拓郎以後のシンガーは揃いも揃ってパブリックな連帯のメッセージを伝えるフォークソングを、純粋にプライベートな個人の屈託事を歌うポップスにとデフォルメしてしまったのです。この故に私は吉田拓郎とそれ以後のいわゆる「フォークシンガー」たちをまったく評価しません。

「友よ、夜明け前の闇の中で 友よ、闘いの炎を燃やせ 夜明けは近い 夜明けは近い」という言葉に込められたメッセージ性と、彼らの小さく冷やし固めた個別の「優しさ」の風景との間に、いったいどんな共通性が見られるというのでしょう?

吉田拓郎の最大の功績、それは「フォークソングの風俗化」に他なりませんでした。

ちょうどそのころに卒業し就職した私は、フォークソングから遠ざかっていました。雪崩を打って変貌してゆく「フォークソング」の有様に、もう本来のフォークの時代は終わったと考えたからであり、職場に順応してゆくことに必死になっていたこともあったからです。

しかし私は間違っていました。就職して6年目、偶然の切っ掛けから「一緒に歌おうフライデー」という集りを覗いた私は、地道に仕事をしながらフォークソング活動を続けている八木たかしという歌手の存在を知りました。東淀川区相川にある公民館の一室を借りて活動を続けていたのです。

「あなたと私は 夢の国 森の小さな教会で 結婚式を挙げました…」という、いったい何が言いたいのか判らない歌が流行っていたころのことです。

八木たかしの歌は、明確なメッセージ性を持った背骨のしっかりした歌でした。日立製作所で続けられた陰湿な企業内苛めに闘いを挑んだ女性の歌:「風よ伝えて」や、ヒロシマの8月15日を歌った「戦いの跡」や、戦争で傷ついた父親を思いやる歌「オヤジの唄」など、どれも心を揺すぶるような唄ばかりでした。

その歌の集りを通して、他にも数多くのフォークソング本来の精神を堅持しつつ地道に活動を続ける数多くの仲間がいることを知ったのです。中島光一、鈴木きよしに出逢ったのもそんな時期でしたし、毎年琵琶湖和迩浜で行なわれる「うたの里」に出入りするようになっていきました。

その中でも、東大阪で活動する刑部けいの作った「いまこの時」という歌は、熱いメッセージを伝えるフォークソングの名作でした。
  
「いま あなたが うたいだすなら
 すべてのことに こころをひらき
 くらしになげき いかりにふるえ
 ちをながすことが なくなるときまで
 あいするものが わたしたちのものが
 よごされ うばいさられるまえに
 いま あなたの できることを
 おそれることなく はじめること
 うたうこと
 さあ うたおうよ こえたかく
 てをとりあうは いまこのとき…」

私の敬愛するW・ガースリーは、「歌とは闘いそのものだ」と言い残しています。これらのフォークシンガーたちは、目標を見失いかけていた私に激しい衝撃を与えてくれたのです。



エッセイ一覧へ→
トップページに戻る→