2008年9月30日
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「私の音楽史」
 
(麺s’ ジャーニー/1951年生/埼玉)


横浜で生まれ横浜で育った私にとって、常に音楽は身近にありました。ラジオのFENから流れてくる洋楽は、幼心にも歌謡曲とは違う興奮を覚えたものです。

私が音楽の世界で生きていこう!と決めたのは高校一年生の時です。当時流行っていたエレキバンドに参加したのが切っ掛けで、練習に明け暮れ、講談社主催のコンテストで全国優勝し、有名プロダクションの社長からスカウトされました。昼は学校で勉学、夜はゴーゴークラブやジャズ喫茶で演奏と、二足のワラジを履きました。高校卒業まで、どっぷり音楽漬けの毎日は、苦しいながらも充実していました。

作曲家と作詞家の作品を演奏する事を信じて疑わない時代から、自作自演に面白さを見出したのはバンドを解散し、エレキギターからフォークギターに持ち替えてソロ活動を始めた頃です。

伝説となっているフォーク喫茶「青い森」(渋谷)に出演した際、同じステージで演奏する「井上陽水」氏との出会いです。今更ここで彼の才能の話をする事はありませんが、カルチャーショックに近いものを感じました。

その後、作曲の真似事を始めたところで大変可愛がって頂いた作曲家「曽根幸明」先生に聞いてもらい、カセットテープは先生の手に・・・
ある日、スタジオに至急来るようにと連絡があり、青山のスタジオに直行すると、そこは大御所「藤圭子」のレコーディングの打合せの真っ最中でした。

そこで先生、ディレクターと本人から『1曲作りなさい』という有り難いお話(内心、冗談じゃない演歌は作れないし困ったゾ)。そこで『妻籠の宿』を書き上げました。(作詞「石坂まさを」氏。アレンジ「石川鷹彦」氏)

名だたる作曲家群を抑えLPのA面1曲目に選ばれ、NHKや民放に出演するときは私の曲(概念を打ち破るフォークソング)を好んで歌ってくれていたようです。

そんな音楽をプロデューサーという立場で携わる事になり(財)ヤマハ音楽振興会に籍を置き、ポプコン東北大会の審査員として、宝「因幡 晃」『わかって下さい』と出会ったのです。レコーディングのアレンジは「クニ河内」氏に頼み、イントロのパイプオルガンは某大学の教会にある本物を使いました。

彼は鉱山技師として働いていたので、プロにならないか?という誘いも当初は断られました。そこで彼の有給休暇を使いエピキュラススタジオで何曲も録り貯めをした曲をアルバムに収録する事が出来ました。(財団内のゴタゴタでLPに私のクレジットは残っていませんが、本人とは今も交流を持っています)

ギターを弾いて歌う!という事を何年もしていない私が、何年ぶりになるのか分かりませんが、「戦うオヤジの応援団」を知り、参加すると決めてから埃まみれのギターケースから引っ張り出しました。ポロンと奏でた音色には、やはり心躍るものがありました。

私の住まいは埼玉県鶴ヶ島市です。どなたか、一緒に遊んで下さいませんか?「GARO」のようなハーモニーの美しいグループを組めたら嬉しいです宜しくお願い致します。(グループ顧問には「大野真澄」氏を迎えようか??思案中です)。

  



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