2009年3月16日
<エッセイ一覧へ>

「一生幸せに暮らしたいならギターを弾きなさい」
 
(skypig/1957年生/北海道)


一時間、幸わせになりたかったら
酒を飲みなさい。
三日間、幸わせになりたかったら
結婚しなさい。
八日間、幸わせになりたかったら
豚を殺して食べなさい。
永遠に、幸わせになりたかったら
釣りを覚えなさい。
中国古諺『オーパ!』開高 健より

応援団の仲間だったら最後の一行「釣り」を「ギター」に置き換えるところでしょうか。
応援団の仲間は皆「ギター」に出会った幸せを感じている。これから進む自らの「高齢化」への不安も幾ばくか和らげてくれると信じている。

また応援団の仲間は他人から供給された何かを受け入れるのではなく、なにかを自ら創り出す「クリエーター」である。
これからの時間極めて大切な「創造力」と「想像力」。
それを「ギター」は私達に授ける。
 
“ファイト! 闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう”
中島みゆき女史の名曲「ファイト」

身を粉にしてはたらくことがたのしいのだというマゾヒスティックな快楽説に私は賛成しないのである。
どれだけのんびり怠けられるかということで一国の文化の文明の高低が知れるというのが私の一つの感想である。
この点では日本は“先進国”でもなければ“中進国”でもなくハッキリと、“後進国”だと私は思う。
“近代化”とは、利口で、正確で、ゆとりがないということらしい。
寛容とか、即興とか、想像力などというものは追放されるらしい。
開高 健『ずばり東京』より

高度成長の時代を生き、まさしく身を粉にして働いてきた。
所得は増え、便利な家電を揃え美食に酔った。
何が不満なんだ?と自問する。

開高大兄の言う「心のふるさと」を求めて北の大地に根っこをおろした。
その根はあくまでもか細く幹を太らせる力はないが、命は繋いできた。
荒々しい北の風土にギターの音色もかき消されていた。
ふと目に止まった新聞記事「吉川忠英 アコースティックギターライブ」に胸躍り駆け付けた。

忠英さんのそつのない実直なギターに酔いしれながら、若い日レコード聴きながら学んだ東京音楽アカデミー「ギター通信講座」、S&Gのギルド、CSN&Y「マーチン」、アルペジオ、スリーフィンガー・・・・中一にアルバイトして買ったFG、髪を肩まで伸ばした高校生時代、切なくも大事な記憶を取り戻していた。

今日応援団のメールマガジン頂きました。
ムーヴメント(運動)としての音楽の社会的役割と可能性について整理してみたい。(応援団事務局の山下さん)

若い頃聴いて育った曲には必ずメッセージが添えられていた。
メッセージに共感したり、反発したりそれぞれが「正面」で受け止めていた。
歳を重ね、たちあいを頭から当たらなくなった。
柳のようにしなやかに受け流しナカナカ折れない強さを身につけては来たが、エゾ松のように倒れても自らを次の世代を育てる肥しになることを恐れて来たのでしょうか。
そこまで究極な哲学はもたずとも「続く世代に何かを伝える義務」はある。

アコースティックギターを持ったアコースティックライフおやじより




エッセイ一覧へ→
トップページに戻る→