2007年8月15日
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「長い道のり」
 
(影絵山人/1955年生/三重)


はじめてギターを手にしたのは高1の時だった。祖母にねだって買ってもらったこのギターはスズキバイオリン社製で、マーチンでいえば、トリプル・オータイプのボデイを持っていた。値段は9,000円だった。あの頃、僕はどうしても自分の歌を創りたくて、それでギターをはじめたんだと思う。コードも知らなくて、短音で音を探して弾いていた。作曲はしたものの、メロディは頭の中だけにあって、悲しいかな伴奏することができなかったんだ。

よしだたくろうに出会ったのが、僕のギター開眼だった。彼の曲を聴いて、必死でマネをした。コードストロークができるようになると、学校へもギターを持って行って、「戦争を知らない子どもたち」などを弾き、クラスメートと歌ったりしていた。

高2の冬、郵便局のアルバイトをしてYAMAHA FG-280を買った。この頃になるとスリーフィンガーができるようになっていた。自作曲も増えていて、好きな女の子ために曲を創って、目の前で歌ったりした。しかし、その時は気に入られ、つきあってもらっても、やがてはふられてしまうのだった。失恋はますます創作意欲をかき立て、オリジナルは増えていった。でも、全くもてなかった(笑)。僕の青春はたくろうと同じく「恋と歌の旅」だったんだ。

学校帰りに、伊勢市駅前の楽器店によく立ち寄った。そこに津々美洋という人がいて、いろいろギターの話を聞かせてくれたり、ギター奏法を教えてもらった。彼は2階でギター教室を開いていて、僕は生徒でもなかったけど、たまにそこへ入れてもらえたのだった。ひどくギターの上手い人だなと思った。そのころは、「星は何でも知っている」を作曲した人だとは全然知らなくて、単なる楽器店員のおっさんだと思っていた。すごく気さくな人で、卒業後もよく遊びに行った。
有名な人だと分かったのは、ずっと後のことだったんだ。もっと売り込んでおくべきだったと後悔している(笑)。

高3の冬、バイタリス・フォークビレッジ全国フォーク音楽祭に応募した、オリジナル「夏に(現在はSUMMERという曲名にしていまだに歌っている)」が、予選を通過し、中部北陸大会まで進んだ。でも、そこでは入賞せず、プロへの道のりは遠かった。僕の失敗はこれで、オーディションを諦めてしまったことだ。

大学生になるとますますギター熱は昂じ、梅田で見つけたキブソンギターの虜になった。 当時マーチンはD-28で34万もした。せめてキブソンをと、手に入れたSJというモデルは21万だった。食堂の皿洗いのバイトをして頭金の3万円を稼ぎ、あとは36回ローンを組んだ。月々の支払いは過酷で、食費にまで及び、ろくなものを食べられなかった。

大学ではフォークソングクラブ、新劇の劇団、状況劇場の劇団を転々とし、学園祭のステージで歌ったり、劇団の音楽担当兼役者を務めた。また、ミナミの酒場で演奏し、カラオケがなかった頃なので、酔客の歌の伴奏もやらされた。同級生に後に有名になった世良政則がいるが、全く面識はない。

大学卒業後、Gigson SJのブリッジがはがれているのに気づき、津々美先生に頼んで、日本ギブソンで修理してもらった。フレットの打ち換えもして修理代は3万6千円也で、痛かったあー。

30代になると、金銭的にも余裕が出てきて、遂にあこがれのマーチンを手に入れた。 あんなに苦労して買ったのにキブソンSJは売ってしまい、代わりに78年製D-28(左写真)を買った。ああ、憧れのマーチン。ものすごい胴なりのするギターで、喜んで毎日弾いていた。28万円也。

弾き語りのみの演奏に限界を感じ、カセットMTRとリズムマシンを購入して、多重録音による宅録に夢中になり、寝食忘れて没頭した。そして、ついにファーストアルバム「空高く」が完成するのである。D-28の音が最初に入ったアルバムだ。

いつのまにか僕は高校教員になっていたのだった。なので(僕の最も忌み嫌う最近の若者たちの、書き言葉にさえなってしまう接続詞をあえて使おう)、生徒に詩を書かせてそれに作曲したり、あるいは勤務校の応援歌やイメージソングを制作、また、他校の生徒の詩に曲をつけ、招かれて文化祭で演奏したりした。3年後2枚目アルバム「新しい時代は海より始まる」完成。ローランドVS-880購入。

ジュデイと知り合い、結婚に至ったのはこの頃だった。彼女もシンガーソングライターで、そしてピアノ弾きだ。2人でデュオを組み、あちこちでライブを続けた。2人は、やがて、ブルースに傾倒し、ジャジィな音楽に惹かれていく。

3枚目アルバム「BLUES IS HOT!」はそんな曲ばかりを集め、伊勢国際ホテルで、キャンペーンライブを行う。(右写真)これには、ブルースギタリスト、ウィピングハーピストが集い、バックは機械的な打ち込み音から生音へ変化してゆく。バンド名「JOE COOLS」。

僕ら夫婦は、バンド名を「影絵山人&ジュディ」と改め、バックにギタリスト、ベーシスト、ドラマーを擁し、ある時は地元のライブハウスで、また、三重県ライトミュージックフェスティバル(右写真)、果ては名古屋のライブハウスで月1度の定期演奏もこなしていた。ジュディの愛器はKORG X2 シンセとシーケンサーは大いに活躍した。でも、彼女もいまだ生ピアノにこだわっている。名古屋祭りに、あるいは、復活した中津川フォークジャンボリーにまで足を伸ばし、ライブの回数を重ねていった。

このころになると僕のギターはエレアコになり、YAMAHA CPX-15を購入して、大音量のバックに備えた。その一方、ブルージィな響きを出すために、67年製Martin 000-28(左写真)68年製Gibson J-45 (下写真)を購入し、レコーディング等大いに活躍する。000-28は50万で買った。いまだに2台とも現役なのだ。000-28はレコーディングのみならず、ステージでも活躍した。前述の三重県ライトミュージックフェスティバルでは、ジュデイの弾くグランドピアノと、コンデンサーマイクで拾われた音量の小さいこの楽器が、セッションを奏でている。会場の津リージョンプラザ(キャパ1000)での、地元のPA業者のなせる技だ。

僕ら夫婦はプロになるかどうかずいぶん逡巡した。でも、そうなるためには年齢が勝ちすぎていたし、2人とも出会った時期が遅すぎた。公務員であることも問題だった。今の安定した生活を捨ててまで、踏み切れなかった。2人とも、心は少年少女のままで、このころから、音楽を生涯の友とすることに、お互い決めていたんだ。

PAの知識も勉強した。それだけでなく、新築した住居にレコーディングスタジオをつくり、機材をも購入し音響空間を構築した。また、小ライブであれば、自らがPA機材を持ち込み、演奏とエンジニアも同時にこなした。ライブするたびに、PAエンジニアに注文をつけ、うるさがられた。僕らは、自分たちの奏でる音が、観客に同じように聴こえ、お客様と同じ音を共有できなければ、我慢できなかったんだ。

オリジナルにこだわった。カバー曲はできるだけ最小限に抑え、あくまで自分たちの曲を世に問いたかった。そうはいうものの、21世紀を迎え、僕ら夫婦に2世が誕生し、しばらく子育てに没頭することとなる。・・・・

そして、現在、僕は弾き語りに戻り、さらにフォークソングに回帰し、もう一度自らの音楽を見つめ直そうとしている。シンガーソングライターの原点は弾き語りなんだよ。そして、少なくとも僕のはじまりはフォークソングだったんだ。よしだたくろう万歳だ。僕は現在の彼がもうしなくなった弾き語りを、ライブで表現する。

ああ、Martin D-28を手放したことは実に後悔している。代わりにD-35を求めていたのに、結局Gibson 180EC(左写真)をCPX-15と交換してしまったのは何故なのだ。わからない、でも、僕の音楽人生は永遠に続く。

プロになることは、定年を迎えてはじめて決心がつくのかもしれない。・・・定年後にデビューしよう。そんないいかげんで、できるわけないってか。そうだよなあ・・・でも、「夢=現実」なんだから。そして、人生は長い道のりなのだから。



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