2007年11月16日
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「私とギターと青春と」
 
(使徒/1958年生/東京)


第1章 出会い
私が最初にギターというものに出会ったのは小学校5年の時でした。当時の担任の先生が大学を卒業して、教師として最初に赴任してきて、そして最初に担任を持ったクラス。まだ学生の雰囲気が残っている初々しい先生。私はその中の1人の生徒でした。先生はホームルームの時間には必ずギターを弾いて皆に聴かせてくれていました。その時に先生が手に持っていたのがフォークギターというものであることを知り、生で聴くそのギターの音はホームルームを重ねる度に私を魅了していきました。先生の演奏を聴いているだけでよかった。その時間が幸せだった。

第2章 衝撃
ある日、いつものホームルームでの出来事が当時内気で大人しかった私を大きく変えることになろうとは・・・ 先生の横にクラスメートのYがいる!しかもギターを持って!『今日はY君と一緒に演奏します』 そして演奏が始まった。先生が単音でメロディーを弾き、Yが何やらジャカジャカ手を激しく動かして音を出しているではないか!衝撃的だった・・・あまりの衝撃で言葉も出なかった。周りを見ると、クラスのみんなも驚いている。なんと私が密かに憧れていたRちゃんも、Yにうっとりとした視線を送っている。

クラス女子生徒ナンバー1の美形、皆の憧れのマドンナであったRちゃんとYが一緒に登校し、一緒に帰るまでにはそんなに時間はかからなかった。悔しかった。本当に悔しかった。成績もそれほどよくなく、顔だって(顔のことは人のことを言えた義理ではないが)それほどでもないYに憧れの美少女を取られた無念を心に抱く者は私だけではなかった。あとで知ったことだが、Yは上に2人いる兄達の影響でギターを覚え、簡単なコードだけは弾けるようになっていて、それを先生に話した。ということであった。

第3章 侵食
『先生、僕にもギター教えてください』 『ん?君もかい?』 私の他に先客が2人もいたらしい。考えることは皆一緒というわけか(苦笑) そして何日か後、放課後の教室にギターの音が響く日が始まりました。最初の頃は先生が2本持ってきていた内の1本を教わる3人で交互に使って練習していたのですが、そのうちに1人また1人と真新しいギターを持ってくる者が現れたのです。自分もギターが欲しい!家に帰ればいつでも弾ける、いつでも練習できる自分だけのギターが欲しい。どうしても欲しい!自分のギターがあれば皆よりもうまくなれる。うまくなればRちゃんだって・・・もしかしたら。

親に物をねだったのはその時1回きりでした。お年玉の前借り分、お小遣い向こう半年分の前借り分、そして自分のわずかな貯金をはたいて最初に買ったギターはYAMAHAのフォークギター。型番は分かりません。定価16,000円のものがケース付で15,000円くらいだったと思います。嬉しかった。嬉しくて涙が出た。買ったその晩は嬉しくて眠れなかった。そしてその日から、ギターというものが自分の生活を侵食していったのです。

第4章 ビートルズ
時は過ぎ、私は中学生になり、一緒にギターを習い始めた2人も同じ中学に進学していた。我々3人は1人が単音でメロディーを、残りの2人がコードをストロークとアルペジオで弾く、いわゆる今でいう【インスト】だったのですが、相変わらずYは我々の一歩先を行っていたのです。Yはネックの下の方(ハイコード)を左手で押さえ、右手は複雑なリズムでストロークをするという、いわゆるカッティング奏法をしながら英語の歌を歌っていました。それがビートルズでした。その出会いもまた衝撃的なものでした。それから我々はこぞってビートルズのLPレコードを買いあさり、ギター譜なども買い込んできて必死になって練習しました。

第5章 エレキギター
そして我々はYとともにバンドを結成することになりました。ビートルズも4人、我々もYを入れて4人。頭数だけはぴったりでも4人皆でギターをやるわけにもいかない、さて困ったぞ。英語の歌が歌えるYが当然ヴォーカル=ポール=ベースに決定。残りの3人のうち、1人がドラムスにならなければなりません。くじ引きとなりました。結果は、いまこうして私がギターの話を書いているということでお分かりになると思います。

考えてみれば、もしあの時にくじで負けていれば私とギターとの付き合いも終わっていたのかもしれません。そんなわけで私はジョン・レノン役に決定し、その他のメンバーも無事決定しました。この時に初めて私はエレキギターを手にしました。グレコの335セミアコでした。中学校3年間、文化祭をはじめとし、いろいろな行事で我々は演奏をしました。はっきりいいまして、モテました。すみません(汗)

第6章  両刀使い
高校に進学した私は軽音楽部に入り、複数のバンドに所属していました。フォークのデュオやトリオではアコースティック、ビートルやヘビメタなどのバンドではエレキギターを持ち、一番多い時で8つのバンドを掛け持ちしていました。この頃に使っていましたのはモーリスW−40とフェンダー・テレキャスター。自分の学校だけでなく、他校の学園祭にまで遠征し、いろいろな人達との交流が持てましたし、毎日が楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。しかし、それもやがて【大学受験】という大きな壁に阻まれ8つあったバンドもすべて解散となり、しばらくは自宅での勉強の合間にモーリスを弾くくらいになってしまっていました。

第7章  大学の部活
なんとか受験を済ませた私は、モーリスとテレキャスターを持ち、嬉々として数多くの軽音楽部を回りました。やっぱり大学の軽音はレベルが高い、というのが第一印象でした。軽音楽部だけで4つか5つあったうちの1つに入りました。大学ではニューミュージック専門。生意気ですが、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルなどのハードロックは高校時代にさんざん演奏していて、飽きてしまっていました。ユーミンをはじめとして、サーカス、ハイファイセット、八神純子、大橋純子などのコピーバンドで、女性ボーカル曲のバックで複雑なコード進行をフォークギターとエレキギターの両方で演奏することが快感となっていました。大学でも他校の学園祭に留まらず、地方にまでも遠征して学生生活をエンジョイしました。そんな楽しい4年間もあっという間に終わり、バンドも解散。つきあっていたボーカルの彼女とも別れ、卒業。そして就職。

最終章  決別
就職先は商社でした。やがて私は海外勤務に・・・行き先はフィリピン!
当然ギターは持って行きました。ヤイリの5万円くらいのアコギ。私は知らなかった!南国の気候がこんなにも違うことを!日本製のギターでは南国(しかも熱帯雨林)には向かなかったのです。ものすごい湿気と温度差に私のアコギは、サウンドホールの中の木がフニャフニャになってしまい、ネックは見るも無残にねじれて曲がってしまいました。それでも私はギターを諦めずに、現地の木で作られたアコギを買い求めましたが、それは日本製単版トップのアコギの音を聴き慣れた私には、まるで別の楽器の音でした。これはウクレレか??形はギターに似ているけど・・・まあ郷に入れば郷に従えということで、我慢して弾き続けました。

そんな私もやがて結婚することになりました。遠い異国の現地妻にする筈だったのが、日本まで追いかけてきて・・・うう・・もうこれ以上は書けません(冷や汗)妻が来て、5〜6本あったギター達は家の中の居場所を失い、1本また1本と私の手から離れていきました。子供が生まれて、最後の1本を失った時・・それは私とギターとの20年間の決別の時だったのです。

終わり


つたない長文にお付き合いいただき、ありがとうございました





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