2009年5月18日
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「フォーク、わが青春のかけがえなき心の友」
 
(コージー/1958年生/愛知)

フォークを耳にしてその魅力に心を動かされたのは、7歳年上の兄が高校生の時に家でギターを弾きながら(主にピッキング奏法で)当時流行っていたメッセージソングなどを歌っていたのを聞いたのがきっかけだった。「戦争を知らない子供たち」「友よ」「イムジン河」などは歌いやすく覚えやすかったこともあり、すぐに兄のギターに合わせて口ずさめるようにもなった。

洋楽ではPPMやビートルズなんかも兄はよく弾き語りしていたものだ。英語の意味など当時わからず単に兄が歌うのを聞こえるままにでたらめな英語の歌詞をまねて歌ったりもした。

元々わが家では父が音楽鑑賞が好きで、幼児の頃からステレオでクラシックレコードを聴いていたので、音楽への興味は自然と身についたものだった。学校の教科の中でも音楽は好きな方で、小学校の頃は父親譲りでハーモニカが上手いのを先生から褒められたこともあった。

中学校に入ると、いよいよ70年代フォークが全盛期にさしかかり、ラジオのスイッチを入れれば毎日のように聞こえてきた。その頃から、学校でもギターを弾ける奴はカッコイイと注目を集め始めた。

当時仲間内で話題になっていたラジオの民放深夜放送にも夢中になり出し、人気のフォークシンガーがDJを担当している番組は、その語りや楽しい企画(深夜時間帯のせいか下ネタも多かった)の面白さから、翌日睡眠不足に苦しむことも恐れずに明け方近くまで布団にラジオ片手にもぐりこんで聴いたことも懐かしい。

そんな中で、吉田拓郎、かぐや姫、井上陽水などがブームになり、歌本を買ってきては兄のギターを借りてコードを覚え、毎日のように弾いているうちに徐々に弾き方がさまになってきた。

高校に入って一番はまったのは、かぐや姫の楽曲で初期の歌から解散の頃の歌までかなりの曲を覚えて弾き語りできるようになった。やがて自己満足だけでは物足らず、人前で披露してみたい衝動にかられ、仲間を引き込み小学校の体育館を借りて内輪のミニコンサートなどもやったり、文化祭では抽選で当たり公会堂のホールで演奏することもあった。

自宅や仲間内だけで演奏している時は失敗なく上手くやれるのに、場慣れしないせいかかなり緊張してとちったこともあったが、結構気持ちの良さも味わえたものだった。

大学に入ってからは、今度はアリスに夢中になり、やはりギターを弾け歌の上手い仲間が見つかり、大学祭のイベントでアリスナンバーを思い切りハモったのが、これまた快感だった。

そんなフォークに没頭した青春時代も終わり、社会人となってからはギターを手にする機会はほとんど無くなってしまい、左手の指先も柔らかくなり、歌を唄うのは会社の上司、先輩から連れて行かれるスナックでのカラオケだけに変化した。しかも専ら歌うのは演歌(ど演歌やムード演歌)ばかり。徐々に心も体もオジサンに近づいていくのがなんとなく寂しく感じることもあった。

30歳で結婚し、その年に父が他界し子供(息子)が生まれ、過酷な仕事や現実生活に追われながらも、音楽を聴くことだけは生活の中から決して外すことのできない心の糧でもあった。

わが息子も親父の影響かどうか定かではないが、ギター(どちらかというとエレキが多いが)に没頭しバンドを組み、創作活動(作詞・作曲・編曲)を手がけるようになった。

そうこうして十数年が経った頃から、高校の同級生が企画する長野県での一泊同窓会に参加するようになった。それぞれ仕事も家庭も環境や事情が異なることは当然ではあるが、この場では青春時代の昔に戻って、冗談を飛ばし合ったり、慰め合ったり励まし合ったり。そして、キャンプファイヤーをやるというので、内緒で持参したギターが大うけで、みんなの懐メロ大合唱の伴奏役を務めることに。

これが毎年夏の恒例行事になり、青春時代を彷彿とさせるひとときとなっている。唄う歌は、まさにフォーク・オンパレードで、次から次へと50曲近くを唄い続ける。伴奏役である私は、ひととおり終わるともうクタクタ。しかし、好きなギターを周りをはばからずに思いっきり弾けることは、この上ない幸せを感ずる。

そして本年2月、探し求めていたオヤジ世代のフォーク集団である『戦うオヤジの応援団』を遂に発見!昨年暮れに50歳になったが、まだまだ心は青春であり続けたいとの願いを込めて、これからもフォークを心の友として大いに思い出を刻んでいきたい。



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