「追憶」
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(真理/1955年生/静岡) |
17歳のわたしは
青く硬く、そしていつも尖がっていた。
傷つくことを恐れ、けれども傷つけてばかりいた。
今よりずっと、自分が何者であるのかを知っているような気になって
正義を振りかざし走っていた。
とても愚かで・・・少しだけ、綺麗だった。
ナオコはクラスメイトだ。
エキゾチックな顔立ちをして
その頃すでに、女性であることを自覚していた。
わたしは?と言えば、まだ少年に過ぎなかった。
ナオコが紹介してくれた地元の友人グループ。
いつもある一人のメンバーの家に集まって
たわいもない論争に明け暮れた。
狭い6畳ほどの部屋は咽ぶほどのタバコの煙と
若者の体臭が充満し
所謂、不穏な青少年の溜まり場であった。
恐らく、近所での評判は最悪だっただろうと想像する。
が、友人の父親はわたしにこんなことを漏らすのだった。
「俺は自分の子供たちを信じているし
みんなのことも信じてる。
ここに集まって、こんな時間を持ったことが
いつかみんなの一生の思い出になったらいいなぁ、と思うんだよ。」と・・・。
そんな良き(?)理解者に見守られながら
結局、不良でもなかったわたしたちは
僅かな酒に酔ってギターをかき鳴らしては歌った。
中でもずば抜けていたのはナオコの歌声だった。
高く澄んだその声は天性のものであった、と今も思う。
岡林信康の「手紙」「チューリップのアップリケ」
赤い鳥の「竹田の子守唄」
圧巻は「翼をください」であった。
わたしはいつも傍で口ずさむことしか出来なかったが
彼女の才能にどれほど憧れただろう。
どこからか聞きつけたレコード会社からの誘いを彼女が断ったのは
そのスカウトを受けるべきは自分だと思い込んでいた
自惚れ男に恋をしていたから。
いつだってそう、つまらない男に恋をして躓いて
泣いてばかりいたナオコ。
それを見て本気で怒っていたわたし。
顔を合わせればお互いを悪く言うことしかなかった。
それでも同じ時代をときに手を繋いで駆け抜けた。
子供たちが成長し、手が離れたら
またお酒でも飲みながら
歌いたいね、と言ってたね。
最後にもらった年賀状、「真理と飲みてぇ〜〜!」って
ふざけて書いていたね。
病院の狭いベッドの中に
小さくなったナオコを見たとき
もう残された時間が長くないことを知った。
美人薄命にしちゃ、生き過ぎたけれど
旅立つにしちゃ早すぎない?
「真理、京都、楽しかったねぇ。」
37年間の腐れ縁で、二人だけで行った旅行は
19歳のとき、3泊4日の京都旅行がたったの一回きりで
それが意識のはっきりしていたナオコの最期の言葉だった。
ちっとも綺麗じゃなくなったけど
すっかりおばさんになっちゃったけど
前よりずっと優しくなって
前より少しは賢くなって
また、悪口言いながら
お酒を飲むはずだったのに・・・
あなたの歌を聞かせてもらう約束だったじゃない。
それにね、わたしも歌うのよ、最近。
きっと驚くと思うよ。
結構、上手いって誉められるんだから。
わたしはこちらでもうちょっと
楽しんでいくことにするわ。
また逢う日には、二人で歌おう。
待っててね。
そのときは、ギターの伴奏、頼んだよ。
今年2月に逝ってしまった悪友ナオコへ
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