「加川良さんによせて」
―歌わずして唄いたいものです― |
|
(ヨンチ/1957年生/千葉) |
(注)本題は、次の「*」からですので、時間のない方は、そちらからお読みください。
***
中学生のときから弾き始めた(フォーク)ギターだった。高校時代に一番熱中していた。濃淡の差はあれ、職場生活にはいり、結婚し、子ができても、ずっとギター――高一のとき、工場で働く母が熱中する私に、五万円という大金を渡してくれて、生まれた町、岐阜県可児郡(当時、現在可児市)にあるK・YAIRIの工場で手に入れたAlvarez
Yairi(シリアル番号481173)――に触れていた。ただ、左指の〈弦たこ〉は、柔らかくなり続けていた。
〈弦たこ〉が完全に消えうせたのは、愛器のブリッジの六弦部分が欠けたせい。修理を、と考えているうちに、それをどこかに無くしてしまった。お金をかけてまで直そうという執着も、どこかに消えていた。結局、このギターは七年ほどものあいだ、ケースのなかで眠り続けることになった。手狭な住宅事情。私は弾かない。息子たちもギターを弾く気配はない。
――もう、処分しようか? 売ればいくらかにはなると思うよ。
――でも、お母さんに買ってもらったものでしょ。置いときなさいよ。
私の演奏と歌を、一度もうまいとも、いいとも思ったことがないと公言するつれあいの言葉が、二度目の〈弦たこ〉復活の淵源になった。
一昨年、ひどい五十肩を患った。それも遠因だ。〈五十肩とボケ防止〉にギターを、と思い立ったのが昨年十二月。リペアをウエッブで検索した結果、やっぱりカワセ楽器だと思った。私の職場はかつて、神田小川町にあった。仕事の気晴らしは、もっぱら古本屋めぐりだったが、ときに目先をかえて、高級ギターを眺めに行っていたお店。二十一世紀になったとき、ペグを修理してもらった。それに、私の住む松戸から地下鉄で直通できる。地下道をあがればすぐの、マイスターの仕事場に、愛器を持ち込んだ。
毎日弾く。つれあいが顔をしかめる。リフを練習していると、息子が「耳にタコだ」と憎まれ口をたたく。最初は痛くてたまらなかった左指先が少し固まり出したころ、昔弾いていたように右手も動き始めた。
その頃のこと。いまは秋葉原にある事務室の応接ソファで、書評を書くための本を読んでいた。ズンと突きあげられた。ガタガタし始めた。よくある震度三? いや違う! 激しい横揺れが始まった。応接スペースと飛び出すと同時に、そこの書棚のうえにあった額や壷が落ちて砕ける音が聞こえた。女性の同僚が悲鳴をあげる。彼女の手を引いて階段で下へ降り、ビルの外へ飛び出した。
三月十一日の昼下がり、原発大震災が始まった瞬間だった。
そんななかでの戦うオヤジの応援団(オヤ応)への「入団」。動機は、単純に、実利だった。愛器の昔からの弱点、六弦の音止まりがひどくなっていた。再度リペアをウエッブ検索する。カワセ楽器のマイスターが、オヤ応の会員を無条件で支援する、リペア料金も割り引くと語っているページに出会った。それがオヤ応のホームページ(HP)の〈クローズアップ〉だった。すぐに「入団」手続き。ステッカーも手に入れた。「入団」の証拠をギターケースに貼った。
数日かけて、くまなくオヤ応HPを探索した。主旨にうなずき、演奏を聞き、写真を見る。セミプロなんだ、みんな。それにしても、いいギター持ってるなぁ――とは、舶来ギターにさわったことさえない私の、率直な感想。あまり縁のない集まりか、との思いもよぎる。でも、柏のパタータは近くだし、練習会に行きたい気持ちも、ぶくぶく泡立っていた。
毎日のぞくHP。総合掲示板に「ずっとウソだった」のスレッドが立ち、議論が始まった。新参者のくせに、かなり深く参与した。人それぞれ、という最近の決まり文句ではない、なにか――そう、連帯だろうか?――を求める真剣な議論だった。でもやっぱり、最終的には、この歳になると、人それぞれ、でしかないんだなぁ、と。
そしてメーデーの日、つれあいとカワセ楽器を再訪、リペアしてもらったあと、近くにあるオヤ応の事務室を、当然――私たちは、友だちの家へ、突然遊びに行く世代だもの――、アポなしで訪ねた。
快く迎えてくれた大王・山下さんのD−28を触らせてもらった。私のヒーローは加川良さんですと話すと、大王が「教訓T」を歌ってくださった。六弦のGがビンビン鳴って、心を揺らす。つれあいが感激して、嫌がる大王の手を握って眼を星にしている。なぜか嫉妬心。高級ギターだし、山下さんは顔がいいからなあとか、的外れな繰言を、心のなかで……。
と、長ながと、どうでもいいことを、という突っ込みを意識しながら、「それでも私は書きたかった」。ここまでが、マクラです。
以下の本題は、そのとき山下さんに、さわりを話したことです。毒はだいぶん、抜いていますけど。
***
手元に、ブックカバーに書かれた加川良さんのサインがある。
〈Forever young 歌わずして唄いたいものです
加川 良(サイン) 75.4.6〉
高校三年の授業が始まる前日、私は名古屋へ向かった。鶴舞の市公会堂で行われる、この地域のセミプロ、アマチュアが出演するコンサートのためだが、彼らに興味はまったくなかった。ただ、メインゲストの加川良さんだけが目当てだった。
開場のかなり前に公会堂に着いた。なかをうかがうと、リハーサルが始まっている。商業ベースではないこうしたコンサートにつきものルーズさのおかげで、私は難なく会場内へ忍び込めた。ステージ正面の通路側、まんなかあたりに、なにくわぬ顔で座る。ちょうどリハしていた山名敏晴さんだけは、「旅の終わり」という曲とともにかろうじて知っていたが、あとは名前も歌も知らない。そんな人たちのハーサルに退屈して、持参した新書本を読み始めた。活字に意識が集中して、まわりの音が途絶えたのは、そんなに長い時間じゃなかっただろう。
キーンと空気が引き締まる感じがして顔をあげると、加川良さんが赤いサンバーストのGUILDを抱えて、マイクに向かっているところだった。
低音がバスドラムのようにビンビン響き、中低音がシャリシャリと乾いて鳴る。加川良だけが出せる弦の音が、私の耳をいっぱいに満たした。そして、低く深く、跳ねあげ、引き戻し、うねり、呑み込むハミングから、なじみの歌詞が、次つぎと心に届き始めた。はじめて見て、聞く、本物! 瞳がうるむほどに、まばたきもせず、遠目からもわかる骨太の体躯のヒーローを、凝視した。弦のうなりがぴたりと止まる。すぐに少しぎこちない独特のスリーフィンガーの奏弦が聞こえてきて歌詞がのり、最終チェック。
――じゃあ、それでと加川さん。リハーサルが終わった。
前年秋にリリースされた最新作『アウト・オブ・マインド』からの曲がほとんどだった――と記憶する。興奮した。本番に備える真のプロの姿が、その興奮を倍加したのかも知れない。
だが、私の興奮はそれで終わらず、予期せぬできごとで頂点に達した。ヒーローがステージ脇から出てきて、私から五つほど前の席に腰かけたのだ。あっと驚いて、しばらくためらった。そして、意を決して立ちあがった。
――あの加川良さんですか?
――はい、と低く柔らかい声。
――サインをいただけないでしょうか?
私は失礼にも、読んでいた新潮文庫のロゴが入ったカバーをかけた新書本と万年筆を、おずおずと差し出した。
――ああ、いいですよ。へえ、なに読んでるのかな、と表紙をめくった加川さんは、「中島誠編著『全学連』三一書房」という文字を読み取って、ほほうとうなってから、私を見て微笑んだ。
そして、書いてくれたのが、冒頭の言葉だった。
しかし、「いつまでも若く」と、末弟のような高校生に書いてくれた加川良さんは、このとき二十七歳で、まさに〈若い〉青年だった。
時代の若さが、急速に老化していたあのころ。「いつまでも若く」とは、私へのメッセージであるとともに、加川さん自身の願いでもあったのかも知れない。
***
それからまる三十六年。原発大震災という現在進行形の状況のなかで行われたオヤ応の総合掲示板のスレッド「ずっとウソだった」をめぐる意見交換は、高田渡さんの「自衛隊に入ろう」を「彷彿」するという意見から始まった。
それに参与しながら、私は「Forever young/歌わずして唄いたいものです」という、加川良さんがくれた言葉を思い続けていた。
そうして、ようやく、いまになって(遅すぎる!)、わかった。加川さんの「教訓T」は、「自衛隊に入ろう」への返歌だった、ということが。「教訓T」と「自衛隊に入ろう」は、ベトナム反戦と自衛隊の軍隊化―当時の自民党政府が真剣に研究していた、学生と青年労働者の街頭行動に対する自衛隊の治安出動の動きに対抗する双子の歌として、若者たちに熱狂的に受けいれられたのだった。
ふたつの歌が生まれた同時代、岡林信康さんは「友よ」「私たちの望むものは」に代表される問題作をつぎつぎ発表し、歌っていた。
そして若者の反乱が鎮圧されて、内部抗争に矮小化していくなかで、やがて、加川良も、高田渡も、岡林信康も、これらの歌を、歌わなくなった。
で、いまは、どうか?
高田渡さんは、自転車に乗って、それも飲酒運転でアンドロメダ星雲の彼方へ旅立ってしまった。だから、私たちはあちら側へ行かない限り、渡さんの実演で「自衛隊に入ろう」を聞くことはできない。でも、あちら側でも渡さんが歌ってくれるかどうか、どうにも、心もとない。
岡林信康さんはいまも、このふたつの歌だけは、どうしても歌わないようだ(私が知らないだけで、歌っているのだろうか? といって、岡林さんが歌うべきだといっているのではない)。しかし、この歌が、「いつまでも若く」あれと願い、ミーイズムではなく、ウイーイズムを生きた青年たちを動かした事実は消えないだろう。
しかし、加川良さんは「教訓T」を、いま、歌っている。
ちなみに、「教訓T」は、管見の限り、ふたりの女性歌手がレコーディングして発売している。ひとりは、演歌の畠山みどりさん。彼女は一九七二年十一月にRCAビクターからシングルとしてリリースしている。畠山さんの「教訓T」を私は聞いたことがない。しかし、彼女と、彼女のスタッフが、このストレートな反戦歌を、あの時代に、どんな思いで選曲したのか、正直、私には、はかりがたい。
もうひとりは、島根県在住のシンガー・ソングライターの浜田真理子さん。 「mariko live ―月の記憶― 2002.11.9 at Bunkamura
Theatre COCOON」というライブアルバムに収録されている。ピアノによる弾き語りだが、彼女の澄んだ歌声が、「教訓T」のメッセージを曇りなく聞く者に伝えてくれる。浜田さんがこの歌を選んだ理由は推察できる。
二〇〇一年九・一一同時多発テロ後、ブッシュ・小泉の「対テロ戦争デュエット」に声を合わせ始めた時代の雰囲気と、実際に戦争が起こり、自衛隊が戦場に出かけて行く状況がつくられていくなかで、〈戦争の空気に感応したカナリア〉としての歌唱だったのではないか。
ところで、さて、加川良さんは、歌わなかった「教訓T」を、いつごろからまた歌い始めたのだろうか? そして、どんな思いで「封印」していた歌を、解禁したのだろう。
オヤ応が発足したことに象徴されるように、時代が三回転半ぐらいして、かつてのフォーク少年たちが、モーリスをマーチンに、ヤマハをギブソンに持ち替えたオヤジになっている。このオヤジたちが、回顧的に「教訓T」を、良さんに求めたからだろうか。プロである限り、聴衆を満足させなければならない。仕事として、リクエストに答えたということもあるだろう。
しかし、リクエストに応えるか、応えないかは、歌手が決める。
最近YouTubeにアップされた、加川良さんの「戦争しましょう」という、強烈なプロテスト・バラッドの動画がある。そこで良さんは「洒落で唄わしてもらいます。マジで聞いたらあかんでぇ。マジで聞いたら頭痛(いと)なるでぇ。洒落でちょこっと」と、照れたあと、嵐のような熱唱で私(たち)を圧倒する。
〈Forever young/歌わずして唄いたいものです〉
歌わずにはいられない、唄わねばならぬ――時代に、加川良が仁王立ちしている。いつまでも若く、あるために。
――いや、そんなことありません。洒落ですよ。
加川良さんは、笑いながら、やんわりと、こちらの勝手な思い込みをたしなめるだろう。きっと、そう言うに違いない。 |
|
|