2011年6月20日
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「そこそこ路線で」
 
(シゲ/1951年生/東京)


 今年5月に還暦を迎えて、改めてこれから音楽との良い関係をどう作って行くか、あれこれと思案している最中です。

 中学時代にPeter Paul & Mary(PPM)に出会ったことで、それまでの音楽との関わりが一変しました。当時はまだFM放送もあまり一般的ではなく、音楽と言えばラジオ番組で聞く小島正雄の「9500万人のポピュラーリクエスト」などを欠かさずに聞いていました。ラジオから流れる音楽は聞くものと、当然のように思っていたのが、PPMのレモントゥリーやパフ、ブラザース・フォーの七つの水仙や遥かなるアラモなどのフォークソングが紹介されると、自分達でも歌いたい、ギターで伴奏したいと多くの仲間が思うようになり、さらにボブ・ディランの存在が一部の人の自分の曲を作りたいという衝動に火を付けたのでしょう。
 音楽は聞くだけでなく、自分でもやるもの、作るもので、それに気がついたことの衝撃、そしてそれがどれほど楽しく、チャレンジングであったことか。未だにその時の興奮を私や周りの音楽仲間は引きずっているかのようです。
 日本人にとって、フォークソングはそのルーツやメッセージ性といったものよりは、自分でも奏でられる音楽の出現という点が重要であって、ろくに歌詞の意味を理解することもせず、オープンリールのテレコにレコードからダビングしたものを繰り返し繰り返し聞いて、歌とギターのコピーに懸命に勤しんだ毎日でした。
 厚生年金会館でのPPMのコンサートを聞きに行った時も、オペラグラスでピーターとポールの左手を観察してコードを確認したり、Don’t think twiceのピーターのギターは2フィンガーなんだと判ってびっくりしたりしていたことが懐かしく思い出されます。
 あの時分は、文化祭でもPPMの曲を演奏出来る、というだけで多いに英雄的であったわけです。その意味でも当時の音楽との係わりには迷いはなかったと思います。

 はてさて、還暦を迎えてしまうと、もうコピーというわけには行かない、というかそれだけでは寂しい、と思ってしまうわけで、それであれこれ思案しているわけです。一方で自作の曲や自分流にアレンジした演奏を聞きたいと言ってくれる人がいるわけでもない、という現実も又これありなのです。
 我々のライヴを聞きに来てくれる人は、多かれ少なかれ義理なのでありますから、お代を頂戴するなど恐縮至極、道楽なのだからお金が掛かるのは当たり前なのですが、それでもそうやって聞きに来てもらうのも3度、4度が限度でしょうか。ここのところが悩ましく、寂しいものがあって、多くの音楽趣味人は、音楽難民への道を進むわけです。
 だからこそ、ここ数年、あちこちで出現している「フォーク酒場」は実に的確にこうした音楽難民のニーズに応えてくれています。お互い聞き合うのがとても平和で迷惑の掛からない難民救済策なのだと感じて、ありがたく足を運ばせてもらっています。

 確か、高校の歴史の先生が授業で「ギリシャの哲人曰く、笛は吹けた方が良いが、吹け過ぎてはならない」という言葉を教えてもらい、これがなぜか記憶に残っているのですが、この言葉の意味するところが今になってだんだん判って来た様に思います。
 高校まで楽しんでいたフォークバンドの活動も、大学に入ってぷっつりと絶ってしまいました。その理由は、音楽性豊かでギターも歌もプロレベルの人たちが大学にはたくさんいて、とても敵わない。慾もあって、「そこそこ」の腕前の自分はどんなにがんばっても彼らのレベルには達しないとのあきらめから、音楽との距離を置いてしまったのだと思います。
 でも、この歳になってまたギターを抱えて歌ってみると、欲も薄れてきていることもあり、音楽を楽しむという点で、この「そこそこ」がとても大事なように感じます。自分に出来ないことは、やらない、無理しない、欲をかかないと観念したことで、とても楽に音楽とまた向き合えるようになりました。
 特にフォーク酒場では,「そこそこ」の演奏、歌を聞いているのが居心地良く、店内の一体感作りにも良いように思えるのです。
 還暦過ぎて、これからは「そこそこ路線」で残りの人生を楽しみめたいと考えています。





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