私は、北海道の中都市で 1953年に生まれる。
実家は 駅前の酒屋で、パパママストアーである。
当然、店の手伝いは必修である。私も小学校5年生になった時から、店の手伝いをした。
私の店番の時間は、親の夕食時間で夕方6時から7時位である。田舎ですから、日没になると、あまり客は来なく、時間をもてあまします。何か時間をつぶす方法を考える、そうだギターを弾こうと思った。今考えてもなぜそう思ったかは解らない。(多分ベンチャーズだろう)クラッシックギターを2000円で手に入れ、店番の時にビールの箱に座って練習をした。
ある日、コップ酒(当時は店で立ち飲みをさせた)を飲みに来たおっちゃんが「にーちゃん、ギター教えてあげようか?」といってきた。
その人は“流し”で、酒を一杯飲んで繁華街に繰り出すのだった、毎日来て、一時間私にギターレッスン、おっちゃんは2年間私の町にいて次の町に行った。別れ際に「流しは三千曲弾けないと町に出れないよ」と言って去っていった。
それから私は中学生になり、とたんにグループサンウズが流行り、アコースティクに転向。本当はエレキが欲しかったけれど、エレキは不良の代名詞で親が買ってくれなかった。安いフォークギターを買って、じゃがじゃが。
中3の時、高石ともやさんの歌を聞いて反戦歌にのめりこむ。高校生になってバイト、当時ヤマハのFG350を手に入れた、(Lシリーズはまだ無かったと思う)
まず、岡林信康・高田渡・加川良のコピー、学校には正統派のサイモンとガーファンクルのバンドがあった。仲間とバンドを組んで学校祭に歌うそんな青春を過ごす。同時に学生活動が起こり、私も負けじと反戦歌 中津川フォークジャンボリに行こうと思った。しかし、行けなかった。学校・私服警官に阻まれ、当日は校長室で特別授業そんな時を経てサラリーマンになった。
当然、長髪はばっさりと7・3に分け、ギターも弾かず、勤勉なサラリーマンになった。やがて彼女が出来、結婚。しかし、音楽は身の回りに常にあった。ステレオ(古いね)はJBL、聴く歌は長谷川きよし・松山千春 無難にすごした。長女・次女・三女と3人の子供が出来、ドロップアウトした私には、出来すぎた日々が続いた。55歳になり、管理職の任を解かれ何か抜け殻になったような気分だった。
その時、体に変調が、手がしびれ、腕が片方動かなくなった。
仕事に行く前にお風呂に入り筋肉をほぐさないと動かない。
手は右側の指の関節が腫れ、赤くなって動かない。病院で見てもらうがリューマチとか筋肉痛だとか腱鞘炎とか、原因がわからない。
どの先生も首をかしげた。ただどの先生も、指を動かしなさいと言った。
そうか指を動かし、こわばりを取るのか・・そうだ私は昔、ギターを弾いたことがあるのだ!
中古ショップでヤマハFG300(赤ラベル・音さマーク)を見つけ買った。
結構弾けるものだ。昔し流しのおっちゃんから習った「網走番外地」、高校時代よく歌った「加川良の教訓」「岡林信康の手紙・山谷ブルース」「高田渡さんの自衛隊に入ろう」、妻はそんなアングラ系はわからないが、「遠い世界に」「これが僕らの道なのか」「あのすばらしい愛をもう一度」を聞いて、やっとギターも認知された。
中古屋というのは面白いもので1970年のFG300は3万円ですが、(YAMAHA旧製品情報より)中古は12000円でした。30年以上前で3万ですよ。多分今の価値なら20万位のお金です。内心良かったと思い買った。
スポンサーがいることは良いことで。遠い昔から長年ずーっと欲しかったマーチンを買いに行った。当時はD28が最高と思っていたが、それからネットの時代となり、また田舎から都会に出て楽器も豊富にある今、D45が昔からあこがれていたと言い張り、買いました。とうとうマーチンD45を手に入れました。
マーチンD45じゃ練習もったいないから、ピックはヤマハFG300で弾いて、アルペジオはマーチンD45で弾いています。 |