2011年6月21日
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「私とギター(2) 復活」
 
(ラルフ/1953年生/千葉)


 数年前、市の広報で「ギター奏者求む・ボランティアで老人ホームや施設で歌う。内容は歌集『ともしび』から」と書いてあった。会員は60代の女性20人位が歌いその伴奏です。早速応募。私がギター・主催者がピアノ。ピアノの伴奏に合わせギターを弾くのです。それを2年ほど行い、仕事で福山へ出張になり、それを機会にやめた。

 福山は、12月末に千葉へ帰るまでの約6ヶ月。その間、ギターを持っていき、休日はギターを弾くか名所旧跡巡り。
ある日、出雲大社に行こうと思い、福山から日本海側へ車を走らせた。ちょうど昼時、お腹がすいてきたので府中市(東京じゃなくて、広島県府中市です)で食事の為に車を止めた。上下町という町だった。そこに上下画廊(HPあり)という、喫茶店があった。そこは、喫茶店と併設して奥にコンサートホールがある、田舎では珍しい喫茶店だった。

 ママは、Sさんという。浅川マキと同じくらいの年齢で、全身黒ずくめの衣装で、浅川マキの再来(顔は浅川マキより美人)と思った。
玄関ホールには記念写真とお土産のブース、そこにママとまだ髪のふさふさした、さだまさしが写っていた。ママは聖子ちゃんカット、さだ坊は毎年来ているらしく、髪の無くなる様子が時系列的に写っていた。鶴瓶・山崎ハコ・日野照正・山下洋輔、びっくりするメンバーだ。そんなわけで 私もギターを持って遊びに行き、12月上旬私の誕生日、ママが誕生日を祝ってくれることになった。私は出張先だから、一人暮らしを哀れんでかな。泊まるところは、近くのユースホステルを準備してくれた。上下画廊で誕生会。いつもの常連が来てくれて、楽しかったひと時を過ごした。私のギターで皆で合唱をし、私はすっかり常連になっていた。

 上下画廊のママの手配したユースホステルに行ったら、そこでもサプライズ。連絡が上下画廊から行っており、皆でまたパーティー。そこに、広島フォーク村から3人ほど来ていた。
広島フォーク村の会員は、そこのホテルで練習会だったのです。広島フォーク村といえば、拓郎のいたフォーク組織だ。風邪でこれないメンバーが多かったが、3人が来ていて、楽しいひとときを過ごした。

 年も押し迫った日、任が解け帰ることになった。
神戸にお客さんが居たので、連絡を取り、途中下車して一杯飲むことになった。私はギターを抱え神戸へ。彼は私より年上で、大手重工メーカーの設計屋さん。以前彼の下で工事をしたことがあった。
ギターを持って再会。六甲山やら見学し、彼の行きつけの飲み屋で乾杯。楽しいひと時を過ごした。

 千葉に戻り、その後彼から電話が掛かってきた。「ギター調子どう??どんなジャンル弾くの?」私は関西フォークですよと言って、加川良の教訓を歌いながら携帯電話の前で弾いた。『命は、一つ人生は一回、だから命を捨てないようにね』このフレーズを歌った後、電話口から『あわてると、ついふらふらと、お国のためだといわれるとネ』???私はこんなマニアックな歌をなぜ知っているのか聞いた。彼曰く「わたしは、加川良の前座を、高校時代怖いもの知らずで、やった事あるのです。」といった。それからちょくちょくフォーク談義で盛り上がる。
 
 彼はさすが関西生まれ、フォークソングの知識は秀でるものがあり、関西のフォークソングが一番と思っているのです。関東のフォークは、カレッジフォークとか、“BAN”のブレザーで、マイク真木、ビリーバンバンとか、俗に言うお坊ちゃまフォーク。彼はやはり関西人です。彼曰く「関東のテレビ放送は、ローカルテレビです」とか。たぶん前回会った時、ギターを抱え、本場じゃない関東から来た、エセフォークシンガーと思って飲んでいたのだろうと思った。彼は非常に紳士であるから、そんな事は無いと言ったので、話は笑い話になった。そんなわけで、メールと携帯で定期談義。歌に昔にテクニックに話を咲かせ、ますますギターが生活の一部に成る、昨今である。
(3)に続く→





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