2011年7月28日
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「音楽への信仰告白」
 
(クワトロ郎/1958年生/埼玉)


53歳になりました。

はっきり言って、色々な音楽を聴いたり、演奏したり、してきました。平均よりは、その幅、頻度、繰り返し度は多いと思います。

優等生的でない、玉虫色的でない、コメントを好き放題に述べます。熱く長文で語りますので、ご容赦。

一番すばらしいと思う音楽は、いわゆる「クラシック」です。あまりに粗いわけ方ですが、ロック(ひとからげですんまへん)、ジャズ、浪曲、民謡、フォーク、歌謡曲、演歌、南米、などいろいろありますが、一つだけ残して後は聴いてはいけない、弾いてはいけない、といわれたら、クラシックを残します。

どの音楽にもすばらしさがあり、人それぞれで良いと思う好みは違って当たり前だという、優等生的な言いは、はっきり言ってしまおう、それは間違いです。クラシックを“知れば”、そんなことは言っておれなくなります。

他の音楽も“そこそこ”良いです。聴きたい音楽がいろいろあってもよいです。でも、ここぞという時の音楽は、やっぱり“クラシック”しかありません。

BGMだったら、なんでも良いでしょう。なんかやるついでに耳さびしいからかける音楽だったらなんでも良いでしょう。でも、わざわざ、時間をかけてそれに集中して聴く音楽だったら、“クラシック”をおすすめします。

まあ、あんまり力を入れて言うことでも無いのでしょうが、これは、たわごとではなく、真実であると、自分で信じています。宗教?そうではない。なぜなら、とち狂ってはいませんので。

何故こんなことを書き出したからかというと、家にステレオは無くなって久しく、音楽を聴くのは、TVか、通勤時の車の中か、通勤歩き中にiPOD、携帯ラジオできくかぐらい。集中して聞けるのは、iPOD。ずいぶん長い間iPODも使っていなくて、今日久しぶりに、モーツァルトのピアノ協奏曲23番、アシュケナージ指揮・ピアノ、フィルハーモニア管(1980年録音)、を聴いたからです。

透明で、平明なメロディー、はったりの無い強弱、生命に寄り添うリズム、どこにも無理も作為も無く、自然で、てらいの無い無我の境地。他のどんな音楽も決して触ることさえ出来ない世界観がそこにはある。いや、冷え冷えとした新月の夜の古城で静かにかき鳴らす琵琶の音がそれに迫るかもしれない。人生とは、人間とは、生命とは、運命とは、なーーんていう議論が全部吹き飛んで、ただ、音楽の前に自分がいる。そして、何であれ、人生、人間、生命、運命、はあるがままである。受け入れろとも言わない、激励もしない、慰めもしない。ただ、あるがままである、と語りかけてくる、このなんというか、安堵感というか、無垢に浄化されるというか、清明さに洗われるというか、安心して身をゆだねられるというか。

こんな音楽は、他には、無い。

大げさでなく、このまま死んでしまっても、そう悔しくは無い、と思った。まあ、まだやりたいこと、心配事はたくさんあり、本当に死んでしまったら残されたものがたいへんで迷惑かけるが、めったに無いすばらしく良いものと同一化できたのなら、他のことはそんなに大事じゃないと思えるほど、この音楽には、精神活動のやり切り感があったということだ。

こんな音楽は、他には、無い。

ということで、音楽への信仰告白でした。

(注)といいつつ、シンガーソングサラリーマンをしっかりやっていますv^^v。
他の音楽が無くなってしまえという、暴論ではありませんので、誤解なきよう。





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