2012年8月31日
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「下宿屋」
 
(GAMA3041/1955年生/山梨)


はたちのとき、京都にいました。
吉田山の夕立のようにふりそそぐ蝉しぐれの中を歩いたこと、ほんやら洞にかおを出し、賀茂川の流れに子どもたちと遊びほうけていた夏を憶えています。
チューリップのアップリケ、手紙。岡林信康のこの2曲を歌いたくて、ギターを初めた気がします。そして、かぐや姫の「僕の胸でおやすみ」が定番ソングでした。

小学四年の音楽の先生からオンチと宣言されていて、ギターを手にしてもFで挫折する、そんな僕はいつも聞いて共感する立場でした。
それでも時々心の琴線がなにかに反応したような時に少しだけギターを鳴らしていました。

50歳を過ぎたある日、加川良の「下宿屋」を聴き、ギターの音が心に残り、繰り返し何度も聞くうちに、その歌詞はたった一言「高田渡がすきなんだ」ということを言っていると気がついた時、歌に思いを乗せるっていいなと感じました。それから、「京都」の単語に30年の時を越えた風景が、その温度や匂いや音までもが心に浮かぶと、歌っていいなと思いました。

2006年、つま恋に行きました。
その会場にいる三万五千人の人たちを見渡したとき、拓郎やかぐや姫のうたを聴きながら、みんな何十年かのそれぞれの人生を生きてきたってことを感じ、打ち上げられた花火を見上げながら、この花火は一生に一度のものなんだと感じたとき、心が何か動いた気がします。

今年(2012年)、衝動的にギターを買いました。マーチンです。弾いていて楽しい。
その事だけで、ハーパーズミルに行ったり、車山に行ったり、ついには「戦うオヤジの応援団」に参画したりしています。
何ができるとか、そんなことではないのですが、流れに刺さった一本の棹のように、手を上げ、出来るところから動いています。
ただ、ギター演奏は、指と衰え続ける脳のリハビリを目的としているので、人様の前ではきっとしないでしょう。




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