「俺なら元気です」 |
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(シャザーン/1961年生/群馬) |
本をたくさん読む家族のもとで育ちました。家には小説系の雑誌も届きましたし、近所の本屋では何の本でもつけで買っていいことになっていました。当時住んでいたのは父の会社の敷地内で国道に面した田んぼの中の一軒家でした。
自分の家が事務所みたいなものでお客さんや従業員がしょっちゅう出入りしていましたので、知らずうちに大人の中で過ごすことが多く、成り行きでこましゃくれた子供になっていったのだと思います。
様々な本を読んだことと、大人たちのやり取りや言葉の機微を蓄積した結果、当時の私は子供らしからぬ訳知り顔で人を先回りしては知ったようなことをいう変な子供だったと思います。
当時も年齢性別を問わず友達は多く、騒々しくやっていたと思います。ただ学校では団体行動に全くなじめず、学芸会や運動会などは、はなから馬鹿にしてぷいと横を向いているものですから教師からは随分とくだらぬ説教をされました。大人相手の喧嘩は上等な喧嘩だと思っていましたので、激しい言葉のやり取りもありました。
ある日、そんな私を見かねてか、母から学習塾にでも通って見てはどうかと打診され、暫くは屁理屈と無視でしのいでいたものの、いうことを聞けばローラースケートを買ってやると言われ、塾など真っ平御免でしたが、しぶしぶ行くことを承諾いたしました。
内心、憧れのローラースケートを手に入れたら適当に暴れてくびにでもなればいいや、ということで町の中心部にある優等生ばかりが通っているという噂の学習塾に通う運びと相成ったわけです。もちろん通い始めてからも親が知らないのをいいことに、町についたら先ずは本屋で立ち読み、その後デパートのジューススタンドで時間をつぶして先週の課題の答え合わせが終わったころ教室にちん入、といった調子で楽しい塾通いライフを満喫しておりました。
そんなある日、先生の話を何気なく聞いておりますと、わき道にそれた時の先生の雑談がことのほか楽しいことを発見したのであります。内容は主に先生の学生時代の話で、学生運動をしていた先生の天皇制に対する考え方や権力に対するそれを吹き込まれる日もあれば、はたまた、セクトの訓練とか称して山中にほっぽりだされて、食い物がなくなってトンボを食った話や、日本各地の面白い方言を習ったり、他にもいい奴だったけれども自殺してしまった親友の思い出話などでした。
たぶんそこはそういった活動家たちの連絡場所にもなっていて、授業中に先生に来客があり「やった、やられた、かくまってくれ」みたいな感じの話を外でひそひそ話していることもありました。
その塾はしょっちゅう引越しをする塾でした。当時は家賃の安い場所を探して転々としているのだと説明を受けていましたが、三回目の引っ越しでバラックの集まるような一角へと移ったときには、子供ながらに、何かこれはただの引っ越しではない、ということを察知しました。何しろ周りの住人は見るからに訳ありのインテリ、泥棒、酔っ払い、みたいな人間ばかりでしたから。大人になった今だから、先生には同じ場所に留まることができない理由があったことはわかります。
それにつけても、そのような場所に近隣の秀才が集い、机を並べていたのです。
私はといえばその中で相変わらずの劣等生で、遅刻していっては先生に雑談をせがむような子供でしたが、ある時エッセイを書く授業があって、そこで私の書いた文章が佳作として紹介されたことがありました。
その光栄とうれしさの後、また先生に褒められたいという気持ちが生まれ、のびのびと文章を書くことができなくなりました。それからは人に褒められることが嫌いになりました。
後日、大学生になって先生と飲んだ時に「塾で一番の優等生だった子が地下にもぐった」という話を聞かされたときは複雑でした。もうそんな時代ではないと思っていましたから。
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