この度は入会早々このような機会をいただきありがとうございます。1964年千葉県佐倉市で産まれまして19歳で上京、以来現在まで東京暮らしの53歳です。最後のリアル拓郎世代かと思っております。
1975年のつま恋コンサート直後「となりの町のお嬢さん」が拓郎との出会いです。それ以前にムッシュかまやつ「我が良き友よ」も強烈な印象で覚えておりますが、フォークソングを意識し一人のアーティストに執着したのは拓郎からです。思えば当時小学校4年生、だいぶマセておりましたね。
親類の兄さんに貰ったTOMSONギターを初めて手にして、フォーク&ニューミュージックの絶頂期を象徴するように次々に出版されたギター教則本で独学で覚えました。「カポタスト」と言う神器を使えばC(Am)とG(Em)から始まる5~6個のコードとその変形でほとんどのフォークソングの歌伴奏が出来ると把握した時は革命でした。楽譜も一切読めぬまま(現在も)、「コードを付った歌詞カード」でレパートリーはどんどん広がり、指弾きの籠った音を好まず、ピック弾きで
3フィンガーの曲もマスターしていました。小学校を卒業する頃には引き語りもこなしていました。
中学からは友達の兄貴から買ったmountainと言う国内メーカーのハミングバードが愛機となりました。中学3年生15歳の夏には千葉の片田舎からたった一人で「拓郎アイランドコンサートin篠島」にも参加しています。
高校入学と同時にアルバイトで貯めたお金(親にせびった分も含め)で憧れのGibson J-45を新品購入しました。しかし拓郎のラウンドショルダーでなく80年代初期のスクエアショルダーでした。中古でラウンドショルダーを探す術などなかったんですね当時は。
そんな加熱しっぱなしのフォーク熱もある時一気に消滅してしまいます。佐野元春の登場でした。もはや完全にROCKでした。あの虚脱感は今でも忘れられません。フォーク熱もギター熱もすっかり醒めてしまい、かといってエレキを手にROCKを始める意欲もありませんでした。19歳で上京し専門学校へ通い、その後都内のPR代理店に就職し….すっかりGibsonに触れることもなくなっていました。お金に困った時には御茶ノ水の楽器店で査定をして貰ったこともあります。あまりの売値の安さに思い留まりました。
広告業界で3年を経て、あるきっかけで音楽業界に転職いたしました。奇遇にもそこは自分に音楽の夢を断念させた佐野元春が所属している事務所でした。以来、音楽業界の裏方を職業として音楽に携わってまいりました。大手事務所からバンドと独立して自宅兼事務所でマネージメントをしたり下北沢でインディーズレーベル(微細なレコード会社)を運営していたこともございます。そんな音楽の現場の傍にはいつもGibson
J-45がありました。
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