2013年6月14日
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「60歳を目前にして、自分探しの旅の途中」
 
(toshi/1955年生/千葉)


 今は千葉県に住んでいますが、生まれは岐阜県の田舎町です。レコード屋も本屋も無かった田舎町に、高校を卒業するまで暮らし、その後、実家を飛び出し、大学で京都、仕事で東京と、流れ流れて、現在の住居は、多分、住所を言っても誰もよく知らないだろう、千葉県の何の特色も無い街にあります。風向きによっては、少し離れた場所にある牛舎から、懐かしいにおいが流れてきます。
時折、「想えば遠くへ来たもんだ♪」と知らず知らずに口ずさんでいる自分がいます。 

 今、想うと、現在の千葉県にたどり着くまでの流浪の発端は、中学の修学旅行にありました。中学の修学旅行は、東京と横浜でした。そして、横浜での宿泊場所は、現在も山下公園に係留されている船「氷川丸」の船室でした。(この頃、氷川丸の船室は、地方からの修学旅行生の宿泊所になっていた)
夜になり、船室の小さな丸い窓から、山下公園の赤っぽい外灯、その下を歩くアベックの姿、樹木の先にあるホテルや大きな建物の灯りが見え、何故かその光景にドキドキと興奮しました。「今、見ている光景は、自分の田舎町とは違う。いつか、今、見ているあの灯りの下に行ってみたい。どんな世界か見てみたい。」と一人、気持ちは高ぶっていました。

 本題の歌との出会いについてお話します。
歌との出会いは、大ファンであった「ピンキーとキラーズ」の「恋の季節」から始まりました。初めて買ったLPレコードは、ピンキーとキラーズでした。何故か、私がファンだと知った中学の国語の女先生が、「ピンキーとキラーズの曲に、よく詩を提供している岩谷時子さんは、素晴しい作詞家なんだよ。」と、顔一杯の笑みを浮かべ、教えてくれました。その国語の先生は、板書の字がとても美しく、気品に満ちていました。ご存命であれば90歳くらいになられていると思います。先生は、中学3年の最後の授業でこんなことを言われました。「みなさんは、みなさんのご両親より早く死んではいけません。」この言葉は、先生の笑顔と共に、ずっと私の頭の、奥の奥に住み続けています。

 次の歌との出会いは、私が中学3年生の時に、4歳ほど年上の従兄弟が、私の部屋の卓上レコードプレーヤ―で聞いていた、シューベルツの「夕日よ おやすみ」でした。「若い農夫が土を耕してく♪」、「夕日よお前もつかれたろ♪」だとっ!!。なんだこの歌は! こんなことが歌になっていいのか! と思いつつ、詩といい、メロディーといい、強烈に未知の音楽に惹かれていく自分がありました。

 そんなこんなで、高校1年生になった私は、今度は、2歳年上の別な従兄弟の誘いで、あの伝説の第3回中津川フォークジャンボリー(3日間開催)に行くことになったのです。この段階で、私はもう、70年代フォークに頭までどっぷり浸かってしまったのです。
食料を持たず参加した私たちは、猛烈な空腹感の中、思う存分「日本のウッドストック」に酔いしれました。長い髪の人たちに混じり、私は、中学時代の丸坊主の頭に、少しだけ髪が伸びた、何ともカッコ悪い状態での参加でした。(この時代、私が住んでいた地域の中学は、男はみんな、丸坊主にしなければいけなかったのです)

 私の歌との出会いで、密かに自慢に思っていることが二つあります。
一つ目が、地方ラジオの公開放送の場で、「岡林信康とハッピーエンド」の生演奏を5mほど前で聴いたことです。二つ目は、京都の「拾得」というライブハウスで山下達郎率いる「シュガーべイブ」を、これも至近距離で聴いたことです。
二つとも狙い澄まして観たというものではなく、たまたま出くわしたという感じのものでした。

 私は、中学での丸坊主の反動と、時代の影響を受け、親に買ってもらった1万円のフォークギターを抱えた、長髪高校生へと「成長」しました。

 その後、大学で、念願であった家を飛び出し、憧れの下宿生活を始めることになりましたが、始まったと同時に、ホームシックに陥りました。その上、その下宿のあまりの壁の薄さもあって、レコードを聴いたり、ギターを弾くことを、しなくなってしまいました。以上が青春時代の、歌との出会いにまつわる話です。

 昨年3月に、ギターを買いました。60歳を目前にして、長い時間をかけて忘れてしまったこと、無くしてしまったものを探すきっかけになるかも知れない、と思ったからです。「戦うオヤジの応援団」の皆さんの歌を聴かせてもらいながら、私は今、自分探しの旅の途中です。




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